阪神チャペルセンター
  礼拝メッセージ
 
2015年月日
第二アドベント礼拝会
「光の子」
ヨハネ12章44−46節

 今日は、ヨハネ12章から、光として来られた主イエスを心にお迎えしたいと思います。クリスマスは、主イエスがお生まれ下さったうれしい時ではありますが、主のご降誕の目的は、全世界の贖いの為の十字架でした。クリスチャンはこのクリスマスの意味を忘れてはなりません。
クリスマスシーズンには、美しい光のイルミネーションが輝きます。クリスマスツリーにも光が灯されます。クリスマスと光は切り離せません。多くの人々は、単なる美しい季節の装飾としか考える事が出来ないかもしれませんが、闇の中に輝く美しい光、それは、御子イエスを表わすのです。
ヨハネ12章の主の教えは、群衆に対して教えられた最後の教えと言われています。この後は、最後の晩餐の席で弟子たちに御言葉を残されるのですが、人々に対してはこれが最後になります。
この時、主イエスは叫ばれたのです。私の言葉を聞いてほしいという叫びです。大切な事を伝えなければならないというお気持ちが溢れています。また、十字架が目前に控えていて、今、この時、神の御心を伝えておかなければという思いに溢れておられました。
そのメッセージは、主イエスを信じる者は、私を遣わされた方、即ち、父なる神を信じるのだということです。主イエスを見る者は、私を遣わされた方、父なる神を見るのだと言われました。神は霊であってみる事はできません。主イエスはその父なる神を私たちに表わしてくださったのです。聖霊は、主イエスを表わされ、主イエスは父なる神を表わされるのです。
さらに、主は光として来て下さったこと、世を裁くためではなく、救うために来られたことを叫ばれたのです。人はこの世に生を受け、ある者は70年、あるいは80年、90年、100年といった人生を送ります。順調な時ばかりではありません。詩編90編には、「人生の年月(としつき)は70年程のものです。健やかな人が80年を数えても得るところは労苦と災いにすぎません。瞬く間に時は過ぎ、私たちは飛び去ります。」とあります。(詩編90:10)人生には労苦と災いがついて回るとうたっています。人生を考えなさいという意味です。
主イエスは人々に救いを語られました。「だれも暗闇の中にとどまることがないように。」(ヨハネ12:46)主イエスは暗闇の中に輝く光です。真の光なのです。その光を求め、信じる時、暗闇から光へと移されるのです。暗闇は恐怖をもたらします。進んで行くべき道を見出す事ができません。躓き、倒れてしまうことでしょう。誤った危険な道を歩んでいてもそれが分からないのです。迷いと恐れの道です。自分には進んでいく自信があると思っても、心の底の恐れが無くなることはありません。
現在は便利な時代で、交通の手段を多く持つ事が出来ています。より短い時間で遠くへ行ける時代です。日本からヨーロッパへ行くにも飛行機で10時間から12時間で行く事が出来ます。アメリカ西海岸へもそのくらいの時間で太平洋を越えて行く事ができます。
飛行機が夜間、闇の中を一晩中飛ぶのです。道も信号もないのに、また数えきれないほどの飛行機が飛びまわっているのに、どうして安全に目的地に向かって飛び続けられるのか不思議に思う事があります。目的地に到着するとホッとするのです。飛行機は、機体の点検はもとより、飛んでいる時は地上の管制センターから航空路や、気象などの情報が伝えられ、的確な情報が与えられているのです。地上からの電波が届かないところでは衛星通信を使って地上との交信を続けます。無数の飛行機が安全に航行できているのには、見えないところで一機一機に安全に目的地に着くように指示がなされているのです。導かれているといっても良いのではないでしょうか。
さて、主イエスは、だれも暗闇の中にとどまることのないようにと叫ばれました。あなたの人生が暗闇ではいけませんと言われているのです。旧約聖書にノアの出来事が記されています。創世記6章5節に、「主は地上に人の悪が増し、常に悪いことばかりを心に思い計っているのをご覧になり・・・心を痛められた」とあります。人が思いつく事、考える事が悪い事ばかりだったとあるのです。自己中心からでてくる憎しみや、裁き合うことや、神の御言葉を全く無視する事などがはびこってしまったのです。神はノアに箱舟を造らせて、ノアと家族を救われました。暗闇のなか、滅びの中から救われたのです。ノアはなぜ救われたのでしょうか。彼は日頃から敬虔な人でした。「神と共に歩んだ」(創世記6章9)とあるのです。神の言葉を聞くことの出来る信仰と耳を持っていました。神の言葉を疑うことなく実行する人でした。神の導きを疑うことなく信じて、箱舟を造ったのです。どのような大水が襲っても箱舟の中は安全でした。箱舟にはかじもエンジンもレーダーもなかったのです。神が導かれました。やがてアララトという山に着く事ができました。
主イエスを信じるという事は、安全の中に入れられる事です。どのような嵐が襲ってきても、主イエスと共にある者は安全なのです。命の光に照らされ、守られます。
主イエスが伝えたメッセージは、「永遠の命」です。「神は、独り子をお与えになったほどに、世を愛された。独り子を信じる者が一人も滅びないで、永遠の命を得るためである。」(ヨハネ3:16)とある通りです。そして、「光が世に来たのに、人々はその行いが悪いので、光よりも闇の方を好んだ。」(ヨハネ3:19)とも記されています。
まことの救い主である主イエスが世の光としておいでになったのに、心の中を照らされる事を好まず、闇を好んでしまう人間の罪深さを言い表わしている御言葉です。心の中を照らされるのが怖い、いやだと思ってしまうのです。頑なさともいえるでしょう。自分の非や罪深さを認めたくない心を持つのが人の姿です。闇を抱えたまま、あたかも光の中を歩んでいるような生き方をするかもしれません。しかし、そこに救いはありません。「悪を行う者は皆、光を憎み、その行いが明るみに出されるのを恐れて、光の方に来ないからである。」(ヨハネ3:26)
ノアの時に、救いのための時間の猶予はあったと思います。悔い改めて箱舟を造り、滅びを免れる事はできたでしょう。しかしそうする人はいませんでした。いまも救いの為の戸は大きく開かれています。誰でも主イエスを信じるなら、光の子とされて、光の中をイエスと共に生涯歩み通す事が出来るのです。
「今や、恵みの時、今こそ救いの日」(Uコリント6:2)なのです。神は私達すべての者に賜物としてイエス・キリストを下さり、救いを下さり、永遠の命を下さったのです。この恵みをしっかりと受け入れなくてはなりません。
クリスマスは、神の愛を思い巡らし、キリストの十字架の贖いを考える時です。いま頂いている恵みの中にしっかりと立ち続ける信仰を改めて決心する時なのです。
  この救いが、命の光が宣教されています。私達も人々の救いの為に祈り、働きます。光の子としての業に用いられているのです。主イエスは、世を裁くためではなく、救うために来られました。救いのチャンスに応答できないなら、それは福音を聞いた時の応答によって自分自身が自分を裁くのです。
 「父の命令は永遠の命」と主はお語りになりました。世を救うために光として来られた主イエスを改めて心にお迎えし、光の子として、主イエスを告白し続け、伝え続けて行きたいものです。
  今日の午後行われるゴスペルコンサートは、光である主イエスを伝える為のコンサートです。さらに祈り、最後まで人々をお招きし、神に期待し待ち望みましょう。




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