阪神チャペルセンター
  礼拝メッセージ
 
2015年12月13日
第三アドベント礼拝会
「愛の神」
Tヨハネ4章7−12節

 アドベント第3週の主の日を迎えました。アドベントは、救い主のお誕生を、心を整えて待ち、クリスマスに備える時です。
先週は、すばらしいゴスペルコンサートをすることが出来ました。お一人一人がしっかりと奉仕をして下さった結果です。救い主を多くの方々に紹介することができました。来会された方々が、引き続きクリスマスや、各集会に出席されて、主イエスを受け入れて救われるように祈りましょう。
今日のテキストであるヨハネの手紙とは、ヨハネによる福音書を記した、ヨハネが書いた手紙です。彼はガリラヤ湖で漁師をしていた時、兄弟ヤコブと共に主に召されて12弟子とされました。若い頃は、主が権力をもたれたら、その右と左の座を与えて下さいと願ったり、主がエルサレムを目指しておられる時、サマリヤで歓迎されなかったので、「主よ、お望みなら、天から火を降らせて、彼らを焼き滅ぼしましょうか」(ルカ9:54)と言ったりしました。過激な発言です。主は勿論「振り向いて二人を戒められた」のでした。このように激しい性格を持っていたので、ヤコブ、ヨハネともに主によって「ボアネルゲス」、「雷の子」という綽名(あだな)をつけられていました。ヤコブは、初代教会が建てられてからすぐにヘロデ王によって殉教しました。(使徒12:1、2)。ヨハネは使徒たちの中で一番長生きし、ヨハネの黙示録を著しています。晩年、エフェソの教会で講壇にもたれながら、「神は愛であるから、あなたがたも互いに愛し合いなさい」と説教したことは有名です。また、主は十字架の上から、ヨハネに母マリアを託しました。母マリアには、「婦人よ、御覧なさい。あなたの子です」と言われ、ヨハネには、「見なさい。あなたの母です」と言われたのです。その時からヨハネはマリアを自分の家に引き取ったとあるのです。(ルカ19:26、27)
若い頃は激しい気性であったのに、迫害や困難を通して、また聖霊に満たされて、その魂は清められ、神の愛を確信し、神の愛の使徒として最後まで用いられたのでした。
主イエスは、最後の晩餐の席上で、「あなたがたに新しい掟を与える。互いに愛し合いなさい。わたしがあなたがたを愛したように、あなたがたも互いに愛し合いなさい。互いに愛し合うならば、それによってあなたがたがわたしの弟子であることを、皆が知るようになる」(ヨハネ13:34、35)と語られました。ヨハネは当然その席に連なっていて、直接その御言葉を聞いていました。ですからその主の御言葉を忘れずに、その御言葉の意味を深く理解し、多くの人々に手紙として送ったのです。
神が愛であることを先ず信じ、受け入れるところからすべてが始まります。まず信じるところから全てが始まるのです。
私たちの神はどのようなお方なのでしょうか。その独り子主イエスをお与えになっても惜しくない程に人々を愛しておられる神です。「わたしたちが神を愛したのではなく、神がわたしたちを愛して」(Tヨハネ4:10)とあるのです。神を愛するなどという事など気づきもせず、自分が良いと思う生き方をしていた者を、愛し続けておられるのです。私たちは神に創造された者です。厳粛な事実です。親は自分の命に代えて子供を愛するのではないでしょうか。詩編27編10節に、「父母(ちちはは)はわたしを見捨てようとも 主は必ず、わたしを引き寄せて下さいます」という御言葉があります。この世で子供を一番愛するのは父母です。しかし、悲しい事に限界もあります。戦後の中国からの引き上げの際に、わが子を中国に残してこなければならなかったという事がありました。だれもそんな事はしたくない。けれどもこのままでは親も子も生きられない。子供を生かすために中国の人に託し、残していかなければならなかったのです。20年近くたってから残留孤児といわれた人たちの肉親捜しが始まって、親に会えた人も、見つからなかった人も多くあったのです。戦争の悲劇です。この世においては力が及ばないことがあります。しかし、私たちの神はどうなのでしょうか。何があっても、どんな状況であっても、決して見捨てることなく愛し続けて下さる、愛の神なのです。
   私たちを愛している事を教えるために。その独り子イエス・キリストを下さいました。イエス・キリストによって神の愛を示されたのです。人が失ったら決して元に戻す事が出来ないものは何でしょうか。取り返すことが出来ない事。たとえば時間は元に戻す事ができません。大切なものだと思います。そして、命ではないでしょうか。命を失ったら、もうもとに戻す事はできません。救いとは、命が救われる事です。人を罪から救い、命を与えるために、神はイエス・キリストをお遣わしになりました。イエス・キリストの十字架によって贖われた事を受け入れた時から、私たちは永遠の命に生きる者となる事ができました。神に愛されている事を知り、私たちも神の愛を表わす生き方に変えられたのです。
ヨハネはエフェソの教会の長老として、人々に神の愛を語りつづけました。互いに愛し合う事、愛する事が出来る人は、神によって新しい命に生きている事の証しです。愛されている事の自覚がある人は、心に平安を持ちます。満ち足りる心を持ちます。愛されている事が分からないと、不満や不安を持ちながら生きなければなりません。愛が分からないので、自分が自分で生きづらい状況を作ってしまうのです。
 「愛することのない者は神を知りません。神は愛だからです。」。
(Tヨハネ4:8)
  私たちは神の愛を知らなければなりません。神の愛は犠牲の愛、アガペーの愛です。私たちを極限まで愛される愛なのです。
この愛を信じた者はどのように生きるのでしょうか。
まず、愛とは与えるものだという事です。主イエスが教えられたのは、神の愛と救いを受けた者は、与える者になりなさいという事でした。
 ともすると愛する事ではなく、愛される事を求めてしまうのが人の弱さです。神が愛なら、私に周囲は私に良くしてくれなくてはいけないと思ってしまうのは神の御心ではありません。互いに愛し合うのです。
互いに親切にし、心を寄せ合う事です。自分のことばかり求めるのは愛とは遠くかけ離れている事です。クリスチャンがまずお互いを愛し、受け入れあう姿を自然に表す時、神の愛が人々に見えるのです。
神の愛は犠牲の愛です。時間において、経済において、労力において、心を使い、相手に奉仕する、それが愛なのです。
主イエス様は、良いサマリヤ人の例え話で愛を教えられました。いつも自分たちを軽蔑して、付き合わないユダヤ人を、サマリヤ人は助けました。同じユダヤ人である祭司や、レビ人さえ倒れている同胞を助けようとはしませんでした。彼は強盗に襲われて、傷つき弱り果てている旅人を見て憐れに思い助けました。手当をし、自分の家畜に乗せて、宿に運び、代金を払って宿の人に介護を頼んだのです。デナリ銀貨を2枚しはらったのですから相当な金額でした。もし費用が不足していたら、帰りに払うとまで言っているのです。
「救」という字は、倒れている人を気づかせるために、トントンとたたき、自分の来ている毛皮を着せかけて温めてあげるという意味を持っています。それで命が助けられるということなのです。良いサマリヤ人の話に通じるのではないでしょうか。
「御父がどれほどわたしたちを愛してくださるか、考えなさい」
(Tヨハネ3:1)
神の愛に応答するためには、まず祈る事です。神を神として崇め、平伏(ひれふ)す祈りです。祈ることなしに神の御心、愛は頭での理解に留まってしまいます。祈りを大切にし、聖霊に満たされる時、神の愛が私たちの内に迫ってくるのです。否定できない愛です。
自分の肉の力ではなく、聖霊によって神の愛が溢れ、神の栄光を表わす
者とされるのです。御心を求めて神に近づき、聖霊によって御言葉を間違いなく受け入れなくてはなりません。
愛と命を与える為に、神は御子キリストを賜りました。このアドベントの期間、主を仰ぎ、神の愛を感謝し、自分の信仰を探り、神の愛に生かされ、人を生かす信仰に進ませてくださるよう祈りましょう。




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