阪神チャペルセンター
  礼拝メッセージ
 
2015年月日
クリスマス礼拝会
「クリスマスの喜び」
ルカ2章1―20節

 クリスマスおめでとうございます。クリスマスとはChrist―mas、キリストに礼拝をささげるという意味の言葉です。クリスマスは礼拝だという意味になります。
主イエスの誕生については、福音書に記録されているとおりです。
今朝はルカによる福音書をお読みしました。神に選ばれ、地上での父となるヨセフと、母となるマリアは、ベツレヘムから120キロ位離れているガリラヤのナザレという村に住んでいました。旧約聖書によれば、キリストはダビデ王の家系から、ユダヤのベツレヘムで生まれると預言されています。ベツレヘムはダビデの故郷でした。イエスは聖霊によって母マリアに宿りました。「見よ、おとめが身ごもって、男の子を産み、その名をインマヌエルと呼ぶ。」(イザヤ7:14)とイザヤによっても預言されています。ヨセフとマリアはガリラヤのナザレからユダヤのベツレヘムへどうしても行かなければなりませんでした。それは、皇帝アウグストゥスが人口調査の命令をだし、全国民が本籍地で登録をしなければならない事になったからです。これは税金の徴収の為でした。ヨセフは身籠っていたマリアを連れてベツレヘムへ出かけて行きました。
ダビデの家系であったからです。身籠っていたマリアにとってこの旅は過酷であった事でしょう。マリアは臨月であって、このベツレヘムで男の子を出産しました。その子は客間ではなく、家畜小屋で布にくるまれて飼い葉桶に寝かせられたのです。「宿屋には彼らの泊まる場所がなかったから」とルカは記しました。
さて、このキリスト誕生の知らせは、野で羊の番をしている羊飼いたちにもたらされました。夜通し羊の番をしている羊飼いたちに、主の天使が近づき、主の栄光が周囲を照らしたので、羊飼いたちは非常に恐れたのです。天使は、「恐れるな。わたしは、民全体に与えられる大きな喜びを告げる。今日ダビデの町で、あなたがたのために救い主がお生まれになった。この方こそ主メシアである」(ルカ2:11)と告げました。そして突然、この天使に天の大軍が加わり、神を賛美したのです。「いと高きところには栄光、神にあれ、地には平和、御心にかなう人にあれ」(ルカ2:14)と。羊飼いたちは天使たちが天に去った後、「さあ、ベツレヘムへ行こう。主が知らせてくださったその出来事を見ようではないか。」と話し合い、ベツレヘムでマリアとヨセフ、飼い葉桶の幼子を探し当てたのでした。羊飼いたちは見聞きしたことが天使の告げたとおりだったので、神をあがめ、賛美しながら帰ったのでした。美しいクリスマスの出来事です。
神様が、キリストの誕生を告げられたのは、野にいる羊飼いたちであった事は意味のある事です。羊飼いたちは当時、律法学者や自分は宗教的指導者だと思っている人々から、非常に低い者たちと位置づけされていた人々でした。羊飼いたちが律法のすべてを知り、守る事はできませんでした。彼らは身を清めたり、手を洗ったり、その他のこまごまとした決まりを守る事はできなかったのです。彼らは常に羊を守っていなければなりませんでした。ですから、律法学者たちは、彼らを見下していたのです。救い主がなぜ、立派な宮殿ではなく、客間ではなく、家畜小屋で誕生されたのか。その誕生がなぜ王ではなく、律法学者ではなく、最高法院の議員ではなく、野にいる羊飼いに告げ知らされたのか。神はそれらを通して私たちにメッセージをお与えになっているのです。
クリスマスは、神が人となられた出来事です。神が人の世界に誕生されたのです。人の世界とはどのような世界でしょうか。世界とは、人の心の表れです。アダムとエバが神に背いた時から罪が入り、人の心は罪という闇に覆われてしまいました。争いが絶えません。憎しみが絶えません。犯罪は人の心の闇が行動に出た時に起こるのです。犯罪には至らなくても、心の中で人を恨んだり、傷つけたいと思ったり、悪い結果の責任を誰かのせいにしたりするのは、心の闇、罪なのです。「罪が支払う報酬は死です。」(ローマ6:23)罪が支払ってくれるものは死でしかありません。滅びに向かって進んでいくとしたら、人とはなんと空しい存在でしょうか。しかし、その心の闇に輝かしい光が差し込みました。
「起きよ、光を放て。あなたを照らす光は昇り、主の栄光はあなたの上に輝く。見よ、闇は地を覆い、暗黒が国々を包んでいる。しかし、あなたの上には主が輝き出で 主の栄光があなたの上に現れる。」(イザヤ60:1、2)救いの時がきて、暗闇に輝かしい光が照ったのです。
それはすべての人々に告げられる「大きな喜び」です。救いの喜びなのです。罪からの解放です。「救い主がお生まれになった」のです。
「しかし、神の賜物は、わたしたちの主キリストイエスによる永遠の命なのです。」(ローマ6:23)神様からのこれ以上はないプレゼントです。キリストにより、罪が赦され、永遠の命が与えられる。これがクリスマスのメッセージです。
さて、マタイによる福音書には、聖霊によって身籠ったマリアの処遇について思い悩むヨセフに、御使いは、恐れずにマリアを妻として迎えるように、マリアの子は聖霊によって宿ったのであり、その子をイエスと名付けるよう、また、その子は罪からの救い主であること、預言の成就であること、インマヌエルと唱えられる事を告げていました。ヨセフは信仰によって全てを信じ、受け入れていました。神が人となられるという事を信じたのです。
イエス・キリストは神であられるのに、貧しい家畜小屋で生まれ、飼い葉桶に眠りました。そこは清潔とは言い難い環境だったでしょう。
ざわざわと落ち着かないし、家畜の匂いもこもっていたでしょう。そのような人の心の中を象徴するような場所で、主イエスはお生まれになりました。神であられるのになぜ人となられたのか。なぜ、はじめに羊飼いにご降誕が知らされたのかを考える時、もっとも低い所に主はおられることに気付かされるのです。
「キリストは神の身分でありながら、神と等しい者であることに固執(こしつ)しようとは思わず、かえって自分を無にして、僕の身分になり、人間と同じ者になられました。人間の姿で現れ、へりくだって、死に至るまで、それも十字架の死に至るまで従順でした。このため、神はキリストを高く上げ、あらゆる名にまさる名をお与えになりました。(フィリピ2:6−9)私たちは神の謙遜と従順に心を留めなくてはなりません。
最も低い所に主イエスは宿られたのです。そして、十字架の死に至るまで従順に生涯を歩まれました。この姿に私たちは習うべきなのです。
信仰とは、神の御言葉を単に覚えている、知っているという事ではありません。心の中に主イエスを個人的な救い主としてお迎えし、生涯イエスに聞き従う事です。聞き従う為には、闇ではなく主の光がいつも心の中を照らし続ける事が必要でしょう。聖霊の光です。救いの光です。
ヨセフが何もかも聞いたとおりに従ったのは、御使いを通して語られる神の言葉を信じたからです。もし、ヨセフが高慢な人間であったなら、神がいくら語られても、信じられない、受け入れられないという事になってしまうでしょう。信仰は謙遜によって実を結びます。信仰とは、神の言葉を信じて一歩一歩歩む事なのです。
イエス・キリストを探し当ててお目にかかった羊飼いたちはどんなに嬉しかったことでしょうか。日頃蔑まれ、軽く見られている自分たちに神がメッセージを与え、救い主に導いて下さったのです。高ぶる者は低くされ、謙遜な者は高くされるのです。
この世で幸いかどうかは持ち物や財産にはよりません。その人の心の在り方がどうであるかで決まります。心に救い主がおられるなら、安心と安全なのです。だれも奪う事ができない平安をもつからです。この世は闇の世であって、罪が溢れています。私たちは神の子であっても、いましばらくはこの世で生きます。
救われた者がキリストの光を持ち、この世を照らすなら、闇は逃げ去るのです。世的な力はなくても、キリストの命と力があります。永遠の救いがあるのです。人が失ってはならないのは永遠の命です。永遠の命を与える為にこの世に人として来られた主イエスを信じ、受け入れましょう。そして、生涯この方に従い続けましょう。私たちが求めるのは、この世の誉や報いではありません。天における神のお言葉なのです。
主イエスを信じ従い続けた者に与えられる言葉は、「良い忠実なしもべ、良くやった」であり義の栄冠が備えられている事が目当てとなるのです。
救い主のご降誕を心から感謝し、心にお迎えし、永遠の救いの喜びの声をあげましょう。この救いを宣べ伝えましょう。




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