阪神チャペルセンター
  礼拝メッセージ
 
2015年12月27日
「希望の神」
ヨハネ16章25節―33節

 今年も今日が最後の礼拝になりました。一年はあっと言う間に過ぎ去って行きます。それは年ごとに実感します。取り戻す事が出来ない日々を大切に、有意義に生きていく事が、神の御心ではないでしょうか。
時間を使う事は命を使うという事です。
先週は、御子が誕生されたクリスマスをご一緒にお祝い致しました。心にしっかりと主キリストをお迎えして、クリスチャンとしての歩みを続けて参りましょう。ヨハネによる福音書は、13章から十字架の直前の最後の食事が始まり、弟子たちに対して主イエスが様々な教えをされた事が記録されています。16章25節からは、父なる神とご自身との関係を弟子たちにお話になりました。神が愛の神である事、主イエスの名によって祈るなら、父なる神は祈りに応えられると教えて下さいました。主イエスは、「わたしの名によって願う」という事を、たびたびお教えになっています。「はっきり言っておく。あなたがたがわたしの名によって何かを願うならば、父はお与えになる。今までは、あなたがたはわたしの名によっては何も願わなかった。願いなさい。そうすれば与えられ、あなたがたは喜びで満たされる。」(ヨハネ16:23、24)。「わたしの名によって父に願うものは何でも与えられるようにとあなた方を任命したのである」(ヨハネ15:16)。主イエスは、主の名によって願うなら与えられ、喜びに満たされると約束されました。主イエスの名によって祈るとは、主の権威によって祈るという事です、主は、マタイによる福音書28章19節で、「わたしは天と地の一切の権能を授かっている」と言われました。これ以上の権威、権能はないお方の名前で祈るのです。キリストの権威の祈りです。これは神の愛によって与えられているクリスチャンの特権です。キリストの権威をもって祈る時、大きな喜びと希望に満たされてアーメン、本当にそのとおりですと、告白できるのです。私たちは祈る事についてこのように知らなければならないのです。確信をもって祈りましょう。十字架を目前にして、弟子たちは散らされてしまう事を主は語りました。しかし、「わたしはひとりではない。父が、共にいてくださるからだ。」(ヨハネ16:32)と、力強く語られました。父なる神が共にいて下さる。何と力強い事でしょうか。
今の世の中は想定外とか予想外という事柄に満ちています。今年は暖冬だそうです。そうはいっても寒いのですが、昔はもっと寒かったと思います。クリスマス寒波などと言って、クリスマスの頃は息をするのが苦しいほど寒かった事がありました。世界的に温暖化は進んでいますが、日本でもこの100年の間に平均気温が上がり、東京は100年前の南九州と同じ温度だそうです。このところ、教会の庭には蚊のような虫が一杯飛んでいました。12月なのにおかしなことです。そうなると、日本にはなかったマラリヤのような亜熱帯の感染症が流行ったり、デング熱などの病気があらわれてきてしまうのです。生態系や植物にも変化が現れて、いったいこの先どのようになるのだろうかと心配する人々も多くいます。また、個人的な問題を抱えている人もたくさんいます。
人の世は戦いに明け暮れ、人の力ではどうする事も出来ない自然界の変化やその他の不安材料が、数えきれないほどあるのです。人が老いていく事も不安となるのではないでしょうか。今までできた事ができなくなるという事態がおきてきます。年々生きにくいような状況になってきているような気がします。しかし、この解決となるのは、永遠に変わる事のない、救い主イエスと、真理の御言葉です。主イエスに希望をおく人は、日々新しい命に生きる事ができるのです。もう間もなく弟子達の元を去り、十字架に向かって歩まれる主イエスは、弟子たちにこれからについて不安を語りませんでした。希望を語られたのです。「これらのことを話したのは、あなたがたがわたしによって平和を得るためである。」「あなたがたには世で苦難がある。しかし、勇気を出しなさい。わたしは既に世に勝っている。」(ヨハネ16:33)何と力強いお言葉ではありませんか。17章は大祭司の祈りといわれる個所で、最後の食事の席での主イエスの話はここで終わっています。
主イエスは「わたしは既に世に勝っている」「勇気をだしなさい」という最後のメッセージを残されたのです。これは、すでに主が世に勝っているという前提があって、勇気を出す事が出来ると考える事が出来ます。主はその後、ゲッセマネの園で血の汗をしたたらせて祈られました。「父よ、できることなら、この杯をわたしから過ぎ去らせてください。しかし、わたしの願いどおりではなく、御心のままに。」(マタイ26:39)弟子たちは眠ってしまったのです。しかし、主は「父よ、わたしが飲まないかぎりこの杯が過ぎ去らないのでしたら、あなたの御心がおこなわれますように。」(マタイ26:42)と祈り終えられたのです。この祈りで主は十字架を確信され、「立て、行こう、見よ、わたしを裏切る者が来た。」(マタイ26:46)と言われて十字架に向かわれました。勇気をもって十字架に臨まれたのです。苦難が待ち受けている所に行くには本当に勇気がいるのです。しかし、主は「立て、行こう」と言われました。この後、大祭司の庭で、またピラトの元で裁判を受け、十字架を背負われてゴルゴタへ進んで行かれました。
ペトロも他の弟子たちも、食事の席で主の最後のお言葉を聞いていました。ゲッセマネにも行きました。しかしペトロは勇気を持つ事が出来ませんでした。大祭司の庭でイエスの仲間だろうと指摘された時、必死に否定してしまったのです。ペトロは、鶏が鳴く前に、三度私を否む(いなむ)と主が予告されていた事を思い出して、外に出て激しく泣きました。取り返しのつかない事をしたのです。どんなに主の言葉を聞いていても、その場に及んだ時、主の弟子である事を告白できませんでした。しかし、ペトロは復活された主によって許され、ガリラヤ湖畔で再び召命を受けて使徒として大きな働きをするようになります。ペトロは、使徒として活躍しました。ペンテコステの日に聖霊が注がれて、人々に大胆にイエスが救い主、メシアである事、その救い主を民衆は十字架に架けてしまったこと、イエスは三日目に復活された事を語ったのです。臆病であったペトロは聖霊に満たされて、大胆に主イエスを宣教し、殉教に至るまで働き続ける事が出来ました。主イエスが弟子たちに、「苦難がある」と語られたのは、迫害が続く事を語られたのです。使徒言行録によれば、ステファノの殉教から始まって、大きな迫害が起こり、使徒以外の弟子たちはエルサレムから地方に散らされて行きました。しかし、この迫害によって散らされた弟子たちは、福音を伝えながら行き巡ったのです。行き詰まりではありませんでした。迫害はつらいけれども新しい道が開かれ、福音が拡大していったのです。
私たちにも思いがけない事が起ったりして、信仰が試されるような事が必ずあります。しかし、それは新しい事が始まるきっかけとなるのです。私たち自身の、主イエス・キリストに対する思いがどのようであるかによって、どう乗り越えて行けるかが決まります。主イエスとどのように繋がっているでしょうか。御言葉を信じ、何があっても主に繋がり、主に従うという、信仰の確信を持っているでしょうか。もし、主に対する思いが曖昧なら、試練の時、本当に主を信じ乗り越えていくことができるでしょうか。試練の時にどのように信仰が働くかが重要なのです。祈る時、確信をもって祈り、アーメンと告白できるでしょうか。主は祈りに応え、思いに勝る事を成し遂げて下さる救い主です。信じる者に永遠の命を与えて下さった方です。この確信を持つなら、御言葉を信じ、辛い時、苦しい時こそ主に頼り、待ち望むはずです。主は勝利を与えて私たちを喜びに満たして下さるお方なのです。今週はもう新しい年を迎えます。新しい年を、皆さんはどのような希望を持ってお迎えになるでしょうか。勝利の希望を持ちましょう。それは、単に私たちの希望がかなうということだけではなく、救いの御業が起こるという希望です。まず自分が世に勝たれた主、罪に勝たれた主、命を与える救い主をしっかりと信じ、この方によってまだ救われていない家族が、友人が、また多くの人が悔い改めて主イエスを受け入れ、新しい人生に生きる年となると心に期待し、実現に至る年となるという確信を持つ事ではないでしょうか。私たちが信じて主の名で祈る時、祈りは聞かれるのです。確信を持って、主イエスの権威によって祈るクリスチャンとなりましょう。
「わたしたちの主イエス・キリストご自身、ならびに、わたしたちを愛して、永遠の慰めと確かな希望とを恵みによって与えてくださる、わたしたち父である神が、どうかあなたがたの心を励まし、また強め、いつも善い働きをし、善い言葉を語る者としてくださるように。」
(Uテサロニケ2:16)



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