阪神チャペルセンター
  礼拝メッセージ
 
2016年1月3日
「厳かな命令」
Uテモテ4章1−2節

 あけましておめでとうございます。私たちは、すでに元旦礼拝で父なる神を礼拝しましたが、日曜ごとに礼拝できるのは、クリスチャンの特権であり、恵みです。礼拝は信仰と生活の中心となります。今年も自分自身の中心に礼拝を置くという信仰に生かされたいと思います。
今日は新年3日ですが、まだ何も始まっていない真っ白なノートを開いたような時です。私たちは神が与えて下さったこの新しい年を感謝し、愛おしみ、神が共に歩んで下さるという祝福を書き綴って行きたいと思います。
さて、今年私たちに与えられている御言葉は、テモテ第二の手紙4章1−2節の御言葉です。パウロはこの手紙を晩年ローマから愛弟子テモテに宛てて記しました。もう殉教が迫って来ている事を予感しながら書いた手紙です。パウロは、イエス・キリストに召されて、迫害する者から宣教する者に変えられて、この世では迫害と苦難の連続だったと告白しています。鞭打たれた事、難船した事、投獄された事、「苦労し、骨折って、しばしば眠らずに過ごし、飢え渇き、しばしば食べずにおり、寒さに凍え、裸でいたこともありました。」(Uコリント11:27)と告白し、さらにパウロを悩ませるあらゆる教会についての心配事があると言っているのです。しかし、パウロは常に神が共におられる事を確信し、体験していました。イエス・キリストは既に世に勝っている事を知っていました。ですから常に勇気をもって福音のために進む事ができたのです。やがて主は来られる事を確信していました。パウロは、生きている者と死んだ者を裁くために来られるキリスト・イエスの御前で、神の国を思いながら、「厳かに」命令をだしました。これは軽々しい事ではなく、非常に大切な厳粛な命令でした。命令とは、お願いではありません。お願いされる事については、どのように応答するか選択するのは自由です。命令はそうではありません。上からの権威によってそのように従わなければならないというものなのです。パウロはキリストの権威によって命令したのです。「御言葉を宣べ伝えなさい」(4:2)。これは先に救われているクリスチャンに出されている命令と考える事ができます。人はどのようにしてイエス・キリストを受け入れ救われるのでしょうか。まず、キリストを誰かに伝えてもらわなければ救われることはできません。神は独り子イエスをこの世に賜って、十字架に架けて罪の贖いとされ、この方の死と復活を信じる者は、誰でも罪許され、永遠の命を頂けるという、すばらしい事を成し遂げて下さいました。これが福音であり、御言葉なのです。伝道するという事は、イエス・キリストご自身を伝える事です。そして、「折りが良くても悪くても」励みなさいと続けられています。これは、歓迎されてもされなくれもとか、聞かれても、聞かれなくてもという意味があります。歓迎されない事はつらい事かもしれません。しかし、歓迎されなかったからといって、伝える事をやめることはできないのです。伝えなければ人は救われない。御言葉を伝えれば、やがて実を結ぶのです。伝え続けることが重要なのです。マルコ4章26節以下に、主イエスが語られた成長する種の例え話が記されています。「神の国は次のようなものである。人が土に種を蒔いて、夜昼、寝起きしているうちに、種は芽を出して成長するが、どうしてそうなるのか、その人は知らない。土はひとりでに実を結ばせるのであり、まず茎、次に穂、そしてその穂には豊かな実ができる。実が熟すと、早速,鎌を入れる。収獲の時が来たからである」。これはマルコによる福音書にだけ記されているイエスの例え話です。
種には命があるのです。命があるので育ち、収穫できるのです。御言葉は生きているのです。御言葉は魂を救う事ができるのです。(ヤコブ1:21)御言葉の種が蒔かれたら、人は水を灌いだり、雑草を取り除いたり、適切な注意深い世話をします。忍耐がいる事です。しかし、育てて下さるのは神です。そして、人は収獲の時が来たら、喜んで鎌を入れる事ができるのです。
元旦礼拝ではヨシュア記を通して、新しい希望に生き、目指す事を決心致しました。信仰とは、神と共に御心を歩み事です。前に進む事なのです。人は限りある世界に生き、常に自分の測りで物事を図ってしまう傾向を大いにもっています。困難を予測すると、避けたいと思う気持ちがあるのです。ヨシュア記では神の命令と約束が与えられました。
「この民すべてと共にたってヨルダン川を渡りなさい」(ヨシュア1:2)。「わたしがイスラエルの人々に与えようとしている土地に行きなさい」(1:3)。「わたしはあなたがたの足の裏が踏む所をすべてあなたたちに与える」(1:3)。
まずヨルダンを渡らなければなりません。ヨルダン川の向こうに約束の地があるのです。かつてイスラエルは、約束の地、乳と蜜の流れる地に入るチャンスが与えられていました。この時、神の命令でカナンの地に12人の斥候が派遣されました。12部族の指導者が派遣されたのです。この先の街には城壁があるのか、木が茂っているのか、良い土地か、悪い土地か探り、果物を採取してくるようにという命令がだされました。約束の地は肥沃なすばらしい地でした。斥候隊は40日後、モーセの元に一房のぶどうをとって、棒にかけ、肩に担いで二人で運んできました。ザクロやイチジクも持ってきたのです。ぶどうもザクロもいちじくもイスラエルの祝福を象徴する果物です。祝福がそこにあるという印をもって帰りながら、ヨルダン川を渡る事ができませんでした。その理由は神の御言葉を信じる事が出来ないためでした。斥候のうちの10人は、「その土地の住民は強く、町という町は城壁に囲まれ、大層大きく、しかもアナク人の子孫さえ見かけました。ネゲブ地方には、アマレク人、山地にはヘト人、エブス人、アモリ人、海岸地方にはカナン人が住んでいます。」(民数記13:28、29)とても入っていって勝つ見込みはありませんという報告をしたのです。12人の斥候の中に、カレブとヨシュアがいました。カレブはユダ族の長であり、ヨシュアはエフライム族の長でした。斥候の報告を聞いたイスラエルの民は、パニック状態になりました。声を上げて叫び、夜通し泣き言をいったのです。不平を言い、エジプトや、荒野で死んだ方がましだ。リーダーをたててエジプトに帰ろうと言ったのです。どこまでも不信仰な民でした。カレブとヨシュアは、「神はあのすばらしい約束の地を下さる。ただ主に背いてはならない、そこの住民を恐れてはならない。主がわれわれと共におられる。恐れてはならない。」と説得したのですが、民は聞く耳を持ちませんでした。約束の大きな祝福がそこにあるのに、神の言葉を信じる事ができませんでした。この後、荒野での40年が始まり、様々な訓練の後、次の世代が今、ヨルダンを渡る事になるのです。出エジプトの世代は、カレブとヨシュアだけでした。
信仰とは、神の言葉を信じて進む事です。不信仰とは神を信じないで自分や周囲の目に見える所を受け入れ、御心と反対の行動をとる事です。信仰は勇気です。不信仰は臆病であるという事ではないでしょうか。ヨシュアとカレブは「神がわれわれと共におられる」と訴えたのです。生きておられる神は、私たちと共におられる神です。
私たちの前にヨルダン川が立ちはだかる事があるでしょう。深くて渡れそうもない川です。しかし、渡らなければ祝福はないのです。御言葉を語らなければならない時に語らないならば、祝福を逃す事になってしまいます。クリスチャンはいつも信仰を試されます。それを一つ一つ乗り越えて行けるのです。試練によって生きておられる神を体験し、深く知る事が出来るのです。イスラエルはどのようにしてヨルダンを渡ったのでしょうか。歩いて渡りました。渡り方を神が教えて下さったのです。神が教えられた通り、祭司が契約の箱をかつぎ、ヨルダン川の中で立ち止まると、川上で水はせき止められました。考えられない方法で川を渡る事ができました。信仰は勇気です。御言葉を宣べ伝える勇気です。去年渡れなかったけれども、今年信仰をもって渡る事ができる。去年伝えたかったけれども出来なかった。しかし、今年、今、勇気をもって救い主を伝えましょう。伝えればやがて収穫の時を迎えるのです。伝えなければ何も起こりません。家族に、友人に私たちの周囲にはたくさんの救われるべき人がいます。救いは私達一人一人の信仰にかかっているのです。私たちは自分でヨルダン川を困難なものとしてはなりません。一歩踏み出せば、渡り切り、戦いに勝利し、魂が救われるのです。
信仰を持ちましょう。信仰によって歩みましょう。困難を主イエスと共に乗り越え、勝利しましょう。




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