阪神チャペルセンター
  礼拝メッセージ
 
2016年1月17日
「失望はしない」
エレミヤ32章6−15節  

 今日は、阪神淡路大震災から21年目の日にあたります。思ってもみなかった大震災に遭遇し、家族や友人、家屋を失い、人生が変わってしまった人々が多くおられます。またあれから21年たって、被災された方々の高齢化が進み、それに伴う様々な問題も起きて、今だに問題は解決していないことを覚えます。
尼崎市でも50名余りの方が亡くなり、負傷者は7千名、全半壊した建物は1万5千棟と大きな被害を蒙っています。その後起こった東日本大震災は記憶に新しいところです。
今ここに集っている私たちは、大きな被害を免れて、現在に至っているわけです。神様の計り知れないご計画の中にあり、生かされて今日を迎えた事に、あらためて神の御心を思い巡らす事が必要ではないかと思います。
今朝は、御言葉により、神様を信じる者たちが、絶望以外に何もないところから、どのように希望を持ち続けるのかを、心に刻みたいと思います。エレミヤ書の紀元前588年当時、バビロンの王ネブカデネザルは、ユダに攻め込んできて、エルサレムを包囲していました。エルサレム陥落はもうすぐだったのです。そのような中、エレミヤは神から、いとこハナムエルの畑を買うように命じられました。それは、エレミヤがハナムエルの近親であって、畑を買い取る権利を持っていたからです。ルツ記でも、ボアズがルツの舅(しゅうと)エリメレクの土地を贖ったという記事があります。当時のユダヤでは、ある人が没落して自分の土地や畑を手放さなければならなくなったら、親戚の者がそれを買い取る権利と義務があったのです。そのようにして主から与えられた土地が他の人に渡るのを防いでいました。エレミヤはその時、エルサレム陥落と、バビロン捕囚を預言して、ユダの王ゼデキヤに捕えられて、牢屋にいました。
神の言葉通り、牢屋にいとこのハナムエルがやって来て、「畑を買い取って下さい。」と頼まれます。エレミヤはその願いに応え、正式に買い取りの手続きをして、その売買契約書を素焼きの器に入れて永久保存します。  
エレミヤは、神の言葉に従い、親戚の権利と義務を果たすためにいとこの畑を買いました。しかし、その時は、バビロンの軍隊が攻め寄せて来て、ユダは今まさに滅びようとしている時なのです。そのような時に畑を買って何の意味があるのでしょうか。バビロンに占領されてしまえば、それは私の土地だといっても、何も主張できません。実際にエレミヤは自分が買った畑を手にしてはいないようです。相続のために行こうとしたようですが、妨げられてしまいました。敵軍に投降しようとしていると守備隊長に誤解されて、捕えられ、また投獄されてしまったのです。 
エレミヤは、ユダ滅亡の後エジプトに連れて行かれて、その地で生涯を終わっています。この時畑を買ったことは、エレミヤ自身の何の益にもなっていません。しかし、銀17シケルを払って土地を購入したのは、神の言葉によるものだった事に注意しなければなりません。まず親戚の義務を果たす事が理由であったでしょう。しかし、今の絶望的な状況を超えて、神はご自身の計画を成し遂げられると信じて決心したのです。ユダ王国滅亡の理由は何だったのでしょうか。神の声に聴き従わず、偶像礼拝を行った罪によるのでした。偶像礼拝はしてはならないと厳重に教えられていたにも関わらず、決して無くなりませんでした。
しかし、エレミヤは、今滅亡しようとしているユダは、また再び神によって再建されるという望みと確信を失いませんでした。ですから、「イスラエルの神、万軍の主が、『この国で家、畑、ぶどう園を再び買い取る時が来る』といわれるからだ」(エレミヤ32:15)と、預言したのです。
エレミヤが国の滅亡の時、将来の希望を語る事が出来たのは、神がすべてを導き、支配されているという事を絶対的に信じていたからです。生きておられ、全てを支配し、導いておられる神を信じていたからです。これが希望の源でした。徹底的に破壊しつくされるこの地について、「この都はわたしに喜ばしい名声、賛美の歌、輝きをもたらすものとなる。彼らは、わたしがこの都に与える大いなる恵みと平和とを見て、恐れおののくであろう」(エレミヤ33:9)と繁栄を約束されているのです。
ユダは、罪深さのために大変な苦難と災いを招くが、「追い払った国々から彼らを集め、この場所に帰らせ、安らかに住まわせる。彼らはわたしの民となり、わたしは彼らの神となる。」(エレミヤ32:37、38)「わたしが彼らの繁栄を回復する」(エレミヤ32:44)と約束された神の言葉を信じ抜いたのです。
神のご支配と導きをどのような時も見失ってはなりません。私たちが住んでいる世界にもさまざまな事が起こり、理解に苦しむ事があります。大震災もそうです。事故や病気も絶えません。耐えきれない、もうだめだと思うような時、気持ちが折れそうになる事があります。なぜ、このような事が起こるのか、理解できないことが起こるのです。
私たちの信仰が生きて働くのはどのような時でしょうか。すべてが順調な時は、感謝や賛美が自然にできるでしょう。しかし逆境の中に投げ込まれたなら、どのような思いを持つでしょうか。ある人は神を恨むかもしれません。「今まで神を信じてきたのに、なぜ神は私を苦しめるのか」という思いです。ヨブはこれ以上ないほど無垢な信仰を持ち、いつも神に従っていました。試練の時にヨブの妻は、「どこまでも無垢でいるのですか。神を呪って、死ぬほうがましでしょう」と言いました。神を呪って死ぬとは、なんと不敬虔な言葉でしょうか。言葉には人を生かす言葉も倒れさせる言葉もあります。苦しい時、そのような事を言われたら心が折れてしまうのではないかと思うのですが、ヨブは、「愚かな事を言うな。わたしたちは神から幸福をいただいたのだから、不幸もいただこうではないか」(ヨブ2:10)と言って、言葉によって罪を犯す事はありませんでした。最後まで試練を耐え抜いて後の祝福を勝ち取ったのでした。
神を信じるという事は、良い日にも悪い日にも同じように神を信じて従い続けるという事です。逆境だからこそ、さらに神を信じて従い続けるのが信仰です。私たちの人生が一冊の本のようなものであるとしたら、その結末は神しか知りません。当事者である自分自身も知らないのです。人は限られた時間、空間の中で生きていて、5分先の事すらわからないのです。すべてを知っておられ、導いておられる神を信じ、委ねる生き方こそ勝利の人生といえるのではないでしょうか。目先の損得や、判断で生きる事は、確かな歩みという事はできません。
まず、神の御声を聞き分けましょう。その時にはなぜだかわからなくても、神は正しい道を示されるのです。又、私たちに必要な信仰の訓練をして下さり、永遠の希望を与え続けて下さいます。
主イエスは十字架で死なれました。主は死なれたのだから、それですべてが終わったと弟子たちは思いました。故郷へ帰って漁師をしたのです。しかし、それで終わりではありませんでした。主イエスは三日後に甦られたのです。弟子たちを励まし、再結集させ、聖霊を注いで世界宣教へと送り出されました。そして、今生きておられて私たちと共に歩んで下さいます。私たちは、生きておられる真の神が共におられるのに、失望するのでしょうか。絶望するのでしょうか。途方にくれるのでしょうか。エルサレムの回復までには長い時が必要でした。またその後にも苦難が繰り返されました。
私たちは、常に目を救い主に向けている必要があります。この方を信じ、より頼む時、失望はありません。神の愛と慰めと力をいただく事が出来るのです。主イエスを信じる者は、永遠の御国にある者です。
この地上の慰めは一時のもので、やがて消え失せてしまいます。しかし、永遠の慰めは神からのもので、失せてしまうものではありません。
エレミヤはこの世では涙の預言者と呼ばれて、不遇と考える事もできます。しかし、神と共にあり、常に神の言葉を曲げずに語り、最後まで従い通した生涯は尊いものであったのです。
パウロと同じように、「義の栄冠」を目当てとし、「主はわたしをすべての悪い業から助け出し、天にある御自分の国へ救い入れてくださいます。主に栄光が世々限りなくありますように、アーメン。」(Uテモテ4:18)と、神に栄光を返し、信仰を告白し続け、信仰の勝利を告白したのです。信仰は勝利である事、希望である事を告白しましょう。




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