阪神チャペルセンター
  礼拝メッセージ
 
2016年1月24日
「つぶやかず、疑わない」
フィリピ2章14−16節

 私たちは、イエス・キリストを自分の個人的な救い主として信じ、受け入れた者です。イエス・キリストを信じる者の群れを教会、(コイノニア)と言います。教会の働きには、礼拝、伝道、信仰の教育、交わり、礼典があります。教会での礼拝、信徒の交わりを抜きにしては、信仰生活は成り立ちません。兄弟姉妹とともに、主イエスを見上げ、どのような時にも信じ、従い、神の栄光を表していくのがクリスチャンです。
そして、一歩一歩信仰によって歩むことを教えられていきます。信仰は日々成長しいくものなのです。フィリピの信徒への手紙は、ローマの獄中でパウロが記した手紙で、喜びの手紙と言われています。繰り返し、「喜びなさい」と勧められています。「主において常に喜びなさい。重ねて言います。喜びなさい。」(4:4)とあります。うれしい事があった時には感謝があふれます。しかし、心が落ち込み、苦しみに満たされ、希望を失うと、不平(つぶやき)や、理屈(疑い、争い)があふれてくるのです。クリスチャンの戦いはいろいろあります。内なる戦いがあります。罪との戦いです。自分の肉との戦いです。
フィリピの教会は、パウロに贈り物をして喜ばれているような素晴らしい教会でしたが、いくつかの問題もあったようです。
パウロは、2章2節で、「思いを一つにして、わたしの喜びを満たしてください」と記しています。思いを一つにしてほしい、一致してほしいといっているのです。神の御心は、教会が一致することです。礼拝は聖霊によって一つとなってささげるものです。「あなたがたに幾らかでも、キリストによる、励まし、愛の慰め、霊による交わり、それに慈しみや憐みの心があるなら」一つになってほしいと言っています。また、4章2節以下で、エボディアと、シンティケという二人の婦人の名をあげて、同じ思いを抱くようにと、勧めています。周囲の人にもこの二人をサポートするようにと書いています。たった二人でも、心を合わせることができなければできないと、教会全体に影響していたのです。
私たちは毎日、キリストが下さる励まし、慰め、聖霊の交わり、慈しみ、憐みをいただいて生きています。それは、自分のためだけではなく、兄弟姉妹のためであることを知らなくてはなりません。慰められた者は、慰めることができる。愛された者は愛することができる。憐みをうけた者は憐れむことができるのです。
クリスチャンの信仰の歩みを妨げ、教会の一致をもたらすことができない大きな原因を考えてみましょう。苦境に立ったと思う時、不信仰になってつぶやくことです。つぶやきといえば、イスラエルがモーセに率いられて出エジプトをして、荒野でつぶやいたことがよく知られています。奴隷として苦しんでいたエジプトを脱出し、紅海を徒歩で渡るという奇跡を体験し、エジプト軍の追撃を神が防いでくださったことを目で見ているのに、荒野で食べ物がないので、嘆き、つぶやいたのです。人々はモーセとアロンに「あなたたちは我々をこの荒れ野に連れ出し、この全会衆を飢え死にさせようとしている」と訴えました。また、荒れ野で飲み水がなく、喉がかわいてしまい、「なぜ、我々をエジプトから導き上ったのか。わたしも子供たちも、家畜までも渇きで殺すためなのか。」と不平を述べたてました。食物も水も命にかかわるものです。周りは見渡す限りの荒れ野で、この先どのようになるのかわからない。このような時、モーセという神がたてた優れた指導者がいるにも関わらず、現状に押しつぶされそうになってしまって、つぶやき続けました。イスラエルは、エジプトでファラオの下で過酷な労働に苦しめられ、生まれた男子は殺されるという迫害の中で、うめき苦しんだのです。そのような中から、乳と密の流れる約束の地へ向かって出発することができたのに、命の危険を感じるとたちまち不信仰に陥ってしまいました。
神は、どのようなお方でしょうか。無から有を生じることがおできになる方です。「わたしは荒れ野に道を敷き、砂漠に大河を流れさせる。荒れ野に水を、砂漠に大河を流れさせ、わたしの選んだ民に水を飲ませるからだ」(イザヤ43:19)。神は約束なさったことを成就されるお方であることを信じなくてはなりません。イスラエルはマナを与えられ、ウズラを与えられ、水を飲むことができたのです。神は、昼は雲の柱、昼は火の柱をもって臨在をあらわし、荒野の旅を導き続けてくださいました。
イエス様もまた、「自分の命のことで何を食べようか何を飲もうかと思い悩むな。命は食べ物より大切であり、体は衣服よりも大切ではないか。空の鳥をよく見なさい。種も蒔かず、刈り入れもせず、倉に納めもしない。だが、あなたがたの天の父は鳥を養ってくださる。あなたがたは、鳥よりも価値あるものではないか。」(マタイ6:25以下)と教えてくださいました。天の父は私たちに必要なものはご存じであって、「神の国と神の義をまず求める」なら、すべては添えて与えられると教えてくださいました。すばらしい真理です。クリスチャンはその信仰によって歩む者なのです。どのように歩んだらよいのかわからないという時にこそ、神が導いてくださる道を進めるのです。
どのようなときにも神の導きが必ずあるのですから、つぶやいてはいけません。疑ってはならないのです。
クリスチャンであることの証しとは、神の栄光のために生きることです。神の栄光を表す生き方とは、具体的に何を表すのでしょうか。見えないけれども生きておられる神を証しすることです。人はクリスチャンを見て神を見るのです。ですから、クリスチャンは責任が重いのです。クリスチャンであっても、日々の生活の苦労は避けることができません。道のない所を通らなければならなかったり、行き止まりのようなところに当たることもあります。ちょうど荒野で食物や水がないような経験です。
その時に、つぶやくのではなく、疑うのではなく、神を賛美し、感謝をささげ、委ねることができるなら、神の栄光を証しできるのです。神を信じ待ち望む姿勢を崩すことがないなら、それは神を信じる者の証しとなります。
 「何事も不平や理屈を言わずに行う」なら、罪が満ち、悪が満ちているこの世の中で、「非の打ちどころのない神の子」として、命のことばをしっかり保ち、星のように輝くことができるのです。
次回の三浦綾子読書会は2月20日です。課題図書は、三浦光世さんの著作、「妻と共に生きる」です。今は三浦綾子さんも光世さんも召されてしまいましたが、依然として多くの人々に作品を通して語りかけておられます。このご夫婦は、数え切れないほどの大病を経験し、その都度乗り越えられ、クリスチャンの証しをたててこられました。綾子さんは脊椎カリエスで13年間寝たきりでしたが、光世さんも父親から移ったと思われる結核菌で、若い時から粟粒(ぞくりゅう)結核(けっかく)や、膀胱、腎臓結核で苦しんでこられた方でした。結婚後も大病が続いたお二人でしたが、その口からつぶやきは出てきませんでした。二人の結婚生を何とかして神の栄光を表すものとしたい、伝道の機会を持ちたいと、クリスマスにトラクトを配りに行ったり、子供クリスマス会を開いたり、自宅前に掲示板を作って、御言葉を掲げ、トラクトを置いて伝道しました。綾子さんの書いた氷点が朝日新聞の懸賞小説に入選したことにより、一躍有名な作家となりましたが、このご夫妻の心の目はどこに向けられていたのでしょうか。入選前も入選後も救い主である、主イエスに向けられ、絶えず主を崇め、主の栄光のために生きることを徹底していたのでした。神の子として星のように輝いたのでした。神は私たちに、主キリストにより一つとなることを期待しておられます。心を合わせること。主に従順であること。つぶやきや争いを捨てること。
心の目をしっかりと主イエスに向け、自分に与えられている永遠の救い、命を喜ぶこと。そうすれば、この時代に神の子として星のように輝く教会、クリスチャンとして豊かに用いられると神は約束しておられるのです。真の救いを受けなければ、真の解決、幸せ、平安、命はありません。真の救いは、主イエス・キリストの十字架の贖いによる以外にはありません。真の救い主が私たちの罪のために贖いとなられて死んで下さり、三日目に復活されたのです。
 イエス・キリストの愛と恵みを受けましょう。イエス・キリストの下さる永遠の命を喜びましょう。神の子としてこの喜びの光を星のように輝かせましょう。神の栄光を豊かに表しこの世に勝利して、キリストの救いを証ししましょう。




 ページのトップへ
  
2016年の礼拝メッセージ
  
他の年の礼拝メッセージへ


トップページへ