阪神チャペルセンター
  礼拝メッセージ
 
2016年1月31日
「なおも望みを抱いて信じる」
ヘブライ11章6節

 主イエス・キリストを信じていなかった時、私たちはどのように生きていたでしょうか。自分の能力、体力、財力、経験、知識あるいは他の人のそれらを頼りにして生きてきたのではないでしょうか。しかし、主イエスキリストを救い主として信じてからは、「信仰によって歩む」ということを教えられ、今日まで歩んでくることができました。
信仰によって歩むとは、言うまでもなく信仰によって生きるということです。私たちは、目に見えるところ、すなわち日常起きてくるさまざまな出来事や、自分の現状によって喜んだり、悲しんだりして、生活の方向付けをしてしまいがちですが、私たちの救い主である、主イエスの導きを忘れてしまってはなりません。人は将来に向かって歩んでいるものです。先に進んでいるのです。明日に向かって進んでいる私たちですから、真の神であり、私たちを徹底して愛してくださる主イエスを信じて従い続けていくのが信仰です。へブル書11章6節では、「信仰がなければ、神に喜ばれることはできません」とあります。信仰がないとは、どういうことでしょうか。イエス様は信じているけれども、従うことはできない。あるいは、ある時には従うが、ある時には従わないといった勝手な状態をいうのではないでしょうか。ヨハネの黙示録3章15節以下に、「わたしはあなたの行いを知っている。あなたは、冷たくもなく、熱くもない。むしろ、冷たいか熱いか、どちらかであってほしい。熱くも冷たくもなく、なまぬるいので、わたしはあなたを口から吐き出そうとしている」とあります。これは、ラオディキアの教会にあてた手紙の中にある叱責です。あなたは、自分は富んでいて必要なものは何一つないと驕(おご)っているが、実は霊的に目がみえず、惨めで憐れな貧しい者だと自覚しなさいと、教えられているのです。本当に富む者となるために、主イエスを信じ、悔い改めなさいと勧められています。心を開いて主イエスをお迎えするなら、主は心の中にお入り下さり、食事を共にしてくださる、本当に親しい間柄になって下さると、約束されているのです。
冷たくてはならない、神に喜ばれる熱い信仰に生きる者となりましょう。
また、「神に近づく者は、神が存在しておられること、また、神は御自分を求める者たちに報いてくださる方であることを、信じていなければならないからです」(11:6)とあります。私たちは祈る時、神に近づきます。また、神は常に近くにいてくださる方です。そのお方がおられること、そして、「ご自分を求める者たち」に報いてくださるお方なのです。私たちは神に求めることは多くあっても、神ご自身を求めることを忘れていることはないでしょうか。神ご自身を求めるとは、「神の国とその義とを求める」ことにつながるのです。神の御支配をまず求めていく、神の御心を求めて従うことが信仰によって歩むことなのです。
そうする時に神は必ず報いてくださる、答えをお与えになるお方であることを体験することができるのです。
 信仰の父と言われるアブラハムは、神を信じ、従う生涯を歩みました。アブラハムは、カルデヤのウル出身でしたが、父テラに連れられて、カナン地方のハランというところに長らく住んでいました。父がハランで亡くなった後、神はアブラハムを召されたのです。「あなたは生まれ故郷 父の家を離れて わたしが示す地に行きなさい。わたしはあなたを大いなる国民にし あなたを祝福し、あなたの名を高める 祝福の源となるように。」(創世記12:1、2)アブラハムは主の言葉に従って妻サラと、甥のロトを連れて旅立ちました。神の言葉を信じて行き先を知らないで出発したのです。行き先は神の導きのままに委ねました。そして、大いなる国民にするという約束があったのでしたが、アブラハムには子供が恵まれませんでした。人は年をとっていきます。神がアブラハムを召された時、アブラハムは75歳でした。やがて100歳になり、サラも90歳になりました。しかし、ローマ書によれば、もう子供を望むことはできない年であることを自覚しながらも、その信仰は弱らなかったとあるのです。(ローマ4:19)疑うのは不信仰であって、信仰によって望みは強められて、神を賛美したのです。目に見える状態によって疑うことをしませんでした。アブラハムの信仰とは、死人を生かし、無から有を生み出す神を信じ、従う信仰でした。長い忍耐が必要でした。心が揺らぐことがあったかもしれません。しかし待ち望み続けたのです。
 やがて神様の時がきて、約束の子イサクが与えられました。神の約束では、このイサクから大いなる国民に発展していかなければなりません。ところが神様は、イサクを全焼の献げものとして献げるようにとアブラハムに語られました。アブラハムは次の日朝早く薪を割り、イサクと召使二人を連れてモリヤの地に向かいました。三日かかる道のりです。はるかにモリヤを見渡せるところに着くと、召使に、「ここで待っていなさい。わたしと息子はあそこへ行って、礼拝をして、また戻ってくる」と伝えました。アブラハムは薪をイサクに背負わせてモリヤへと向かっていきました。イサクは、献げるはずの動物を連れていないので不思議に思い、「お父さん、火と薪はありますが、献げものの子羊はどこにいるのですか」と聞きました。アブラハムは、「わたしの子よ、献げものの子羊はきっと神が備えてくださる」と答えました。神が定められた場所に着いて、アブラハムはイサクを縛って祭壇の上に乗せ、屠ろうとしました。その時、「その子に手を下すな。あなたは、自分の独り子である息子すら、わたしにささげることを惜しまなかった」という御使いの声があったのです。アブラハムが目を凝らして周りを見渡すと、一匹の御羊がやぶに角をとられていました。アブラハムはその御羊を捕まえて全焼の献げものとして神にささげて礼拝をしました。その場所は「主の山に備えあり」と、名づけられました。
アブラハムは何を信じたのでしょうか。全能の神は、約束されたらそれを必ず成就されるということです。神様の約束は、「あなたから生まれる者が跡を継ぐ。」(創世記15:4)「天を仰いで、星を数えることができるなら、数えてみるがよい。あなたの子孫はこのようになる」(創世記15:5)という約束でした。アブラハムはこの神を信じて義とされたのです。神からの大きな試練でしたが、約束の子を返していただけないわけはないと固く信じていたのです。ですから、召使にも礼拝をして又戻ってくると言ってでかけました。アブラハム一人で戻るのではなく、イサクと共に戻ると言ったのです。さらに、アブラハムが待望していたのは神の都でした。アブラハムの生活は天幕の生活でした。土台はないのです。仮の住まいといえる生活でした。しかし、やがて堅固で揺るぐことのない神の都に住まう時があると、固く信じて待ち望んでいたのです。
神は、救い主イエス・キリストをこの世に遣わされました。この救い主を信じる者が罪赦され、永遠の命に生きるためです。主イエスが十字架にかかり、三日目に甦られた同じ命に生きるためです。アブラハムが信じていたのは復活の命、神の下さる永遠の命でした。それで神はアブラハムを義とされたのです。
 信仰とは、真の神を信じ、その御言葉に従うことです。私たちに与えられている日々は引き返すことのできない大切な日々です。明日へ向かって進んでいく日々です。信仰によって歩みを続けなければなりません。熱くもなく冷たくもない信仰ではなく、順調な時も試練の時も固く信じて揺らがない信仰によって歩んでいくのです。神は人とは違います。人の考えなど及ばない、はるかに高いお方です。「わたしの思いは、あなたたちの思いと異なり わたしの道はあなたたちの道と異なると 主は言われる。天が地を高く超えているように わたしの道は、あなたたちの道を わたしの思いは あなたたちの思いを、高く超えている。」(イザヤ55:8、9)「わたしの口から出るわたしの言葉もむなしくは、わたしのもとに戻らない。それはわたしの望むことを成し遂げ わたしが与えた使命を必ず果たす」(イザヤ55:11)とあって、神の御言葉は必ず果たされると約束されているのです。
私たちは、もうこれ以上待ち望めないとか、もうこれは結果を見ることはできないとか、自分で結論をだしてしまうようなことはないでしょうか。アブラハムは「死者に命を与え、存在していないものを呼び出して存在させる神」を信じたのです。神にはどのようなこともおできになるのです。希望がもてない状態の中で、なおも希望を抱いて神を信じたのです。これが信仰です。そして、多くの国民の父となるという神の御言葉が成就しました。神は遠くにおられる神でしょうか。有名な人や、特別な人の神ではありません。神は私たちと共にいて、信仰によって歩めと励まし続けておられるのです。信仰は勝利です。




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