阪神チャペルセンター
  礼拝メッセージ
 
2016年2月7日
「導かれる主イエス」
ローマ10章9−13節

 2016年が始まって早くも2月に入りました。今日は礼拝後宣教会議です。大切なビジョンのために祈りましょう。そして、主イエスが下さっている日々を有意義に、神の御心にかなって過ごしていきたいものです。
さて、私たちは阪神チャペルセンターというこの教会に属していますが、これはどのようなわけで導かれたのでしょうか。家族や友人、誰かが誘ってくれたとか、ホームページで導かれたとか、あるいは特集がきっかけになったとかであると思います。その背後には神の見えざる御手があり、神の深いご計画のもとに導かれたことを覚えることが必要です。自分で選んだのではなく、神が選んでくださってここにあるということです。主イエスを救い主と信じて信仰を告白してから、私たちの人生は変わりました。変わらなければおかしいのです。救われる以前は、罪を罪とも知らず、自分中心であるための様々な問題に苦しみながらも、理由がわからないことが多かったのです。人間関係がうまくいかない、あるいは様々な問題が起きてくるのは、自分ではなく他の人や環境や状況のせいにしていたのです。もちろん自分の力の及ばない問題も多くあるでしょう。しかし、自分の内に罪があることが分かったら、直ちに十字架の下で悔い改め、新しい力を得ることができることを知りました。また、力が及ばない事柄について、ひたすら主を待ち望むことができるようになったのです。頼れるお方があるということはなんと素晴らしいことではありませんか。
教会の働きには、礼拝、宣教、教育、交わりがあります。いずれもキリストが中心になって進められる働きです。御言葉が正しく解き明かされ、道理にかなった礼拝(ローマ12:1)がささげられるのが教会です。「自分の体を神に喜ばれる聖なる生けるいけにえとして献げなさい。これこそ、あなたがたのなすべき礼拝です。」とある通りです。そして、正しく御言葉を知って信じ、従う時、主イエスを中心にした交わりがなされ、また、魂が救われるための熱心な祈りと働きがなされていきます。
真の礼拝者が集う教会は、神の御働きが進められ祝福に満ち溢れます。
先週、黙示録のラオディキアの教会に与えられたメッセージについて触れました。「あなたは、冷たくもなく熱くもない。むしろ、冷たいか熱いか、どちらかであってほしい。熱くもなく冷たくもなく、なまぬるいので、わたしはあなたを口から吐き出そうとしている。」(黙示3:15,16)冷たくなってはなりません。「わたしは愛する者を皆、叱ったり、鍛えたりする。だから熱心に務めよ。悔い改めよ」(3:19)と続けられているのです。熱心な信仰とは、聖霊に満たされて、御言葉に立ち、従い続ける信仰といえるでしょう。神に聞き従う信仰です。自己中心な信仰は信仰とはいえません。一瞬、一瞬、自分を明け渡し、主の導きを固く信じ、従う者に祝福がないわけがありません。
主イエスは十字架で贖いの死を遂げられて、三日目に復活され、今生きておられる神です。祈りに答え、命に満たして下さる方なのです。
この主イエスは、私たちを教会から遣わされることを覚えなくてはなりません。魂の救いのためです。どこに遣わされているのでしょうか。家庭や職場、学校、所属しているサークル、あなたがいるところすべてにです。あなたが遣わされているところ、そこにいる人々の救いを祈りましょう。家族の救いを祈りましょう。あなたが毎日顔を合わせている同僚の救いを祈りましょう。隣の人の救いを祈りましょう。クリスチャンは祈ることができるのです。主イエスの名によって祈る祈りはきかれます。信じましょう。
人がこの世でどのように素晴らしい生活ができたとしても、救いがなければ空しいのです。そして、救いとは、主イエスの罪の贖いを受け、永遠の命の中に生きることです。このとき、人は永遠の平安を持つことができます。救いが必要でない人は一人もいません。そしてその良い知らせを伝えるのはクリスチャンにしかできないことなのです。
 人が救われる唯一の方法は、心で主が十字架で罪の贖いを成し遂げられ、死んで三日目に復活されたことを信じ、口でイエスは主であると公に告白することです。主という言葉は「キュリオス」であって、神の尊号として用いられた言葉です。王であり、全世界の主権者、そして、救いを与えてくださるただ一人のお方という意味を持ちます。それを公に告白する時、はじめてクリスチャンであることを、神が認め、人が認めるのです。キリストに属するものであることがはっきり示されるのです。
さて、私たちが福音のために遣わされる動機は何でしょうか。それは、神に対する愛の応答です。神を愛するならば、御心を行うことに心を使います。神の御心とは、「すべての人が救われる」(Tテモテ2:4)であり、「全世界に行って、すべての造られたものに福音を宣べ伝える」(マルコ16:15)ことです。神はキリストを賜るほどに世を愛されました。神がすべての人を愛しておられるなら、私たちもその愛に生きるべきです。伝道の動機とは、神と人に対する愛の表れであって、他の理由はないことをおぼえなければなければなりません。
福音を宣べ伝えるとは、イエス・キリストを伝えることです。心と心の伝道の原則は、まだ主イエスを信じていない人に、イエス・キリストを伝え、心に受け入れることを促すということです。伝えるべきメッセージが違う時、正しい情報は伝わりません。ただ一人の救い主、キュリオス、罪を赦して永遠の救いを与えてくださる方、私たちすべての者を愛して、罪の身代わりとして十字架で死なれ三日目に甦られた方を伝えるのです。その動機は神に対する愛であり、人に対する愛なのです。
人はさまざまな価値観を持っていて、なかなかイエス・キリストを信じようとはしません。しかし、伝えなければ絶対に奇跡はおきません。植物や花はどのようにして咲き、実るのでしょうか。種をまかなければ芽はでません。花も咲きません。実も実ることはないのです。種をまいてもどうせだめだから、まかないでおこうと思うなら、神の御心を損なうことになってしまいます。なぜなら、種を蒔き、水をやるのは人のなすべきことですが、成長させてくださるのは神の御働きだからです。救いは神の御業なのです。ですから、宣教に失敗はないと励まされるのです。人がいつ救われるのか私たちにはわかりません。しかし、キリストの愛をもって、キリストご自身を伝えるなら、神は御業を表されることを信じましょう。
 主イエスは、ある時ユダヤからガリラヤへ行かれるとき、サマリヤを通過されました。ユダヤ人はサマリヤを通らず、わざわざヨルダン川を渡って旅をするのです。通常は通らないルートです。主はここで一人の婦人に福音を伝えたのです。昼の12時ごろヤコブの井戸の傍らで、水を汲みに来たサマリヤの婦人に、命の水であるご自身を伝えたのです。ユダヤ人は、サマリヤ人と交流することはなく、ましてやユダヤ人男性がサマリヤ婦人に話しかけることなどありませんでした。しかし、主イエスは、「この水を飲む者はだれでもまた渇く。しかし、わたしが与える水を飲む者は決して渇かない。わたしが与える水はその人の内で泉となり、永遠の命に至る水がわき出る。」(ヨハネ4:14)と伝えたのです。
この婦人は、かつて5人の夫がいたけれども、いまいる人は夫ではないという生活をしている人でした。魂は飢え渇いていたのです。井戸の水で喉の渇きは一時癒せても、魂の渇きを癒す方法がありませんでした。主イエスが与えてくださる命の水を飲む、すなわち、この救いを受け入れるなら、永遠の命に満たされ、永遠の命の泉によっていつも潤い続けられることが示されました。食物を買いに行っていた弟子たちが戻った時、「わたしの食べ物とは、わたしをお遣わしになった方の御心を行い、その業を成し遂げること」、「目を上げて畑を見るがよい。色づいて刈り入れを待っている。既に、刈り入れる人は報酬を受け、永遠の命に至る実を集めている。こうして、種を蒔く人も刈る人も、共に喜ぶ」(ヨハネ4:33以下)と教えられました。サマリヤの人々は主を信じたのです。「わたしは自分で聞いて、この方が本当に世の救い主であるとわかった」(4:42)私たちを導き続けてくださる主イエスに従い、永遠の命に至る業に用いられる教会であるよう祈り求めましょう。一人一人が御業に用いられる教会であるように祈りましょう。主イエスは必ず導き整え、救いの御業を表して下さることを信じて感謝をささげ、心を献げて祈りましょう。




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