阪神チャペルセンター
  礼拝メッセージ
 
2016年2月14日
「成長させて下さる神」
マルコ4章35−40節

 人は何歳になっても成長することができるものです。私はもう年をとったので、これでもう十分ということはありません。この地上で生きているのは、自分で生きているのではなく、命を与えてくださる神が生かしておられることを覚えなくてはならないのです。神が生かされているなら、必ずその目的があるはずです。与えられている日々に感謝し、神の御心を求めることが必要です、神の目的にかなう生活は、必ず満足と平安と感謝に満たされるのです。
命あるものは、必ず成長していきます。成長とは、体や心が大きく育っていくことを意味しますが、クリスチャンにとっての信仰の成長とは、どのようなことなのかを考えてみたいと思います。
今日の聖書のテキストは、主イエスが湖で突風を静めて弟子たちを助けてくださったところです。主イエスは、多くの人々に天の国とはこのようなものであると、たとえでお教えになりました。その後に、弟子たちと共に湖の向こう岸へ渡ろうとされて、舟を漕ぎ出したのです。大きな船ではありません。漁師が漁に使う舟です。この湖は言うまでもなくガリラヤ湖のことです。弟子たちの多くはこの湖で漁師をしていたという経歴があります。ガリラヤ湖は、海抜マイナス200メートルで、谷底にあるような湖です。そのために周囲の陸地から突然突風が吹くことは、良く知られていたことでした。ちょうどこの時も、そのような場面に遭遇したのでした。この嵐で弟子たちが体験することができたのは、主イエスと共にあることの安心でした。突然の嵐に漁師出身の弟子でさえ、慌てふためき、眠っておられる主イエスに助けを求めたのです。主イエスは、「黙れ、静まれ」と風を叱り、湖に命令されました。風は静まり、凪になりました。主は、「なぜ怖がるのか。まだ信じないのか」と弟子たちに言われました。弟子たちは、「非常に恐れて、いったいこの方はどなたなのだろう。風や湖さえも従うではないか」(マルコ4:41)と互いに言い合いました。これは、嵐を静められる主を怖がったのではなく、非常に畏敬の念をもったということで、厳粛な気持ちになったという意味を持っています。弟子たちは主イエスと共にあって、その御言葉や奇跡を目の当たりにしていたのに、「この方はどなたなのか」と言い合いました。主イエスを本当に知ってはいなかったのです。真の神、唯一の救い主、この方による以外に救いはない方、罪の許しとすべての権威を持つお方です。主(キュリオス)です。
人生には悲しみがつきものです。人は、愛する者を失うという、これ以上ないほどの悲しみ、苦しみを体験することがあります。主イエスは十字架に架かられ、信じる者の罪を赦し、永遠の命を与えてくださいました。愛する者を失った、しかし、今、主と共にあるということと、やがて再び会う時が備えられているという確信を与えられて、永遠の平安と慰めを持つことができるのです。また、人生の分かれ道に差し掛かった時、「あなたの御心はどこにありますか」と祈ることができます。主は道を示されるのです。
私たちが敬虔に、遜って(へりくだって)主に従う時、すばらしい平安に満たされます。
人はさまざまな恐れを持つものです。将来に対する不安、世の中の不安、家族の心配、不安の種は尽きません。幼子のようになって真の神に頼り、無用の心配を捨てなさいと主はいわれるのです。「恐れることはない、わたしはあなたと共にいる神」(イザヤ41:10)というメッセージを与え続けておられます。最大の悲しみや苦しみの中に主は共におられて、平安を与えてくださるお方なのです。
弟子たちの信仰は成長したでしょうか。主イエスの十字架という出来事を通して、彼らは恐れのただ中にあって、人目を避け、鍵をかけて室内に閉じこもりました。そこへ復活された主がおいでになり、「あなたがたに平和があるように」と言われたのです。重ねて「平和があるように」と言われて、「あなた方を遣わす。聖霊を受けなさい」(ヨハネ20:19以下)と弟子たちを励まされました。やがて五旬節の日に約束の聖霊が注がれて、弟子たちは力を受けました。そして、それぞれが大迫害の中、主イエスを宣教し続けたのです。
さまざまな困難の中、弱い者が聖霊によって強められ、整えられて御心に生きるということは、信仰の成長と考えることができます。
創世記にヤコブの子、ヨセフの出来事が記されています。ヤコブはイサクの子、イサクはアブラハムの約束の子です。ヤコブはイスラエルとも呼ばれていましたが、11番目の息子であるヨセフをどの息子よりもかわいがりました。年をとってから生まれた息子だったからです。ヨセフは父親にかわいがられていることが分かっていたことや、神から特別な賜物が与えられていることで、お兄さんたちに対して高慢なところがあったようです。もちろんお兄さんたちにはヨセフに対する嫉妬心がありました。どちらも罪深いところがあるのです。ある時、ヨセフは父親からシケムという場所で羊を飼っているお兄さんたちの様子を見てくるように言われました。遠くからやってくるヨセフの姿を見たとき、兄たちはヨセフを亡き者にしようと企みました。恐ろしい計画です。ただ、長子ルベンは、ヨセフを助けようとして、「手を下してはならない」と反対しました。ヨセフを穴に投げ込んでおいて、通りかかった隊商に売ってしまおうと相談していたら、その間に別の隊商がヨセフを穴からだして、イシュマエル人の隊商に売ってしまいました。ルベンはヨセフを助けようと思って穴を見たのですが、ヨセフはもういませんでした。兄たちは、ヨセフは獣にかみ殺されたと父ヤコブに報告し、父は嘆き悲しみましたが、もうどうすることもできませんでした。愛し合うべき家族、兄弟の悲劇です。
家では父に愛され、晴れ着を着せてもらっていたヨセフでしたが、エジプトに奴隷として売られて、多くの苦難を受けなければなりませんでした。ヨセフはファラオの高官ポティファルの家のしもべとなることを始まりとして、さまざまな苦難を受けます。冤罪、投獄、牢を出られると期待していたら、約束してくれた宮廷の役人は、自分が助かったらヨセフのことはすっかり忘れてしまいました。約束違反です。結局2年も牢につながれなければなりませんでした。やがてファラオが不思議な夢を見て、夢の解き明かしを求めている時、やっと侍従長は牢にいるヨセフを思い出したのです。ヨセフはファラオの夢を解き明かし、エジプトに7年間の大豊作があるが、その後、7年間の大飢饉がある。だから、7年間の豊作の間、穀物を蓄え、飢饉に備えるよう進言しました。ファラオは驚き、また喜んで、ヨセフを宮廷の責任者として、重く用いるようになりました。ファラオに次ぐ地位を与えたのです。ヨセフの許しなしには国が動かないほどになったのです。17歳で売られて、このとき30歳になっていました。牢獄にもどこにも神はヨセフと共におられたのです。その後、飢饉のためにヨセフの兄弟たちがエジプトに穀物を買いにやって来ました。ヨセフは兄の内一人を残して、穀物を携えて家に帰り、その後、末弟ベニヤミンを連れてエジプトに来るよう求めます。ヨセフは兄たちが、「弟のことで罰を受けているのだ。弟が我々に助けを求めたのに耳を貸さなかった。」と話しているのを聞きます。シメオンを残して兄たちは家に帰りました。そして、再びエジプトへベニヤミンを連れて出かけるのですが、ヨセフは、兄たちがベニヤミンを守ろうとする姿に感動するのでした。特にユダは、ベニヤミンのためにとりなし、自分が身代わりになるとさえ言いました。ヨセフは自分がヨセフであることをあかし、「神がわたしをあなたがたより先にお遣わしになったのです。悔やむことも責めることも必要ありません」と語りました。ヨセフも成長しましたが、兄弟たちも成長して、赦し合い、神の救いのご計画を確認することができたのです。
信仰の成長とは、どのような事態の中にあっても神を信じ、神が最善をなして下さることを固く信じることができるということです。さらに、神は私を愛して、神のご計画に用いてくださるということです。時には試練によって鍛えられることがあります。しかし、耐えられないような試練はありません。試練と同時に逃れる道も備えられているのです。
神は私たち一人ひとりに目を留められて、ご自分の栄光を表すようにと願っておられます。どのような時も共におられる主イエスを信じましょう。聖霊によって主イエスを知りましょう。嵐を静められる主イエスの平安がどんなにすばらしいか声をあげて賛美しましょう。
永遠の命を喜びましょう。救いを感謝しましょう。今日よりは明日、明日よりは明後日、今年よりは来年と、信仰の成長を願って祈りましょう。


 ページのトップへ
  
2016年の礼拝メッセージ
  
他の年の礼拝メッセージへ


トップページへ