阪神チャペルセンター
  礼拝メッセージ
 
2016年2月21日
「実を結ぶ信仰」
ヨハネ15章16−17節

 昨日は三浦綾子読書会があり、「妻と共に生きる」という三浦光世さんの著作を通して、人として、また、クリスチャンとしての歩み方を教えられて感謝でした。信仰によって神を待ち望み、ひたすら誠実である姿勢に、神は答えられ、大きく用いられたご夫妻であったと改めて感じました。もうすでにお二人とも天に帰られていますが、まだまだこの世において著作を通して用いられていることは素晴らしいと思います。次回は6月4日(土)です。今から予定して出席してください。
さて、きょうも御言葉を待ち望み、御言葉によって生かしていただきたいと神を仰ぎます。主イエスが十字架に架かられる直前、エルサレムで弟子たちと最後の食事をなさいました。これは、過越の祭りの食事でした。マタイ26章によると、主イエスに弟子たちが、「どこで過越の食事の用意をしましょうか」と聞くと、主は、「都のあの人のところに行って、・・・お宅で弟子たちと一緒に過越の食事をするといっています。」と伝えるようにと言われました。主はご自分の十字架が近づいていることを知っておられて、「わたしの時が近づいた」という言葉でところを備えておられたのです。その食事の席で、主は弟子たちの足を洗い、多くのことを語り、「わたしがあなたがたを愛したように、互いに愛し合いなさい。これがわたしの掟である」と、教えられたのです。弟子たちは、主の十字架のことを悟ってはいませんでした。ユダが裏切ることを主は知っておられましたが、弟子たちはそれも知りませんでした。主イエスは、「わたしはぶどうの木、あなたがたはその枝である。人がわたしにつながっており、わたしもその人につながっていれば、その人は豊かに実を結ぶ。わたしを離れては、あなたがたは何もできないからである」(ヨハネ15:5)と、しっかり主につながっているようにと、語られたのです。つながっているとは、主イエスの命で日々生かされるということで、主イエスの命がなければ外に投げ捨てられて枯れてしまうのです。厳粛にうけとめなくてはなりません。私たちは主イエスにつながっている、すなわち、主イエスを信じる信仰によって与えられるイエスの命で生かされているのです。また、主イエスは、「あなたがたが豊かに実を結び、わたしの弟子となるなら、それによって、わたしの父は栄光をお受けになる」(ヨハネ15:8)とも言われました。私たちは豊かに実を結ぶ者になりたいのです。豊かに実を結ぶことと、主の弟子になることで、父の栄光を表す者とされるのです。
このイエスの御言葉から、キリストの弟子とは、豊かな実を結ぶことと、神の栄光を表す者だということが考えられます。実を結ぶ信仰は、神の栄光を表します。クリスチャンの生涯の最大の目的は、その信仰と行いとによって、神の栄光を表すことなのです。
日々の生活の中で、私たちの心はどこにあるでしょうか。もし、自分の生活、都合、損得で生きているなら、神の恵みはありません。神の栄光を表すことはできないばかりか、良い実を結ぶこともできないのです。
実とは、まず、自分自身の内に実る実を考えることができます。
主イエスの人格を形作っていく実です。キリストの人格に変えられていくこと、御霊の実を結んでいくことです。ガラテヤ5章には、御霊の実について書かれています。「霊の結ぶ実は愛であり、喜び、平和、寛容、親切、善意、誠実、柔和、節制です。これらを禁じる掟はありません。」とあります。(ガラテヤ5:22、23)主イエスを信じ、受け入れる以前には人が持つことができなかった性質です。人がキリストによってこれらの実を実らせるなら、それが表に現れて、すべてに良い結果を生むことになります。愛の人はいつも喜び、寛容であって、徒(いたずら)に争いません。愛の実を結ぶ時、心は平和に支配され、人を許し、受け入れられるのです。心がいつも満たされて、自我を十字架にくぎ付けして治め、御心に歩むことが喜びとなります。主イエスのようになるのです。
コロサイ書にも、「あなたがたは神に選ばれ、聖なる者とされ、愛されているのですから、憐みの心、慈愛、謙遜、柔和、寛容を身に着けなさい。互いに忍び合い、責めるべきことがあっても、赦し合いなさい。主があなたがたを赦してくださったように、あなたがたもおなじようにしなさい。これらすべてに加えて、愛を身に着けなさい。愛はすべてを完成させる絆です。また、キリストの平和があなたがたの心を支配するようにしなさい。この平和にあずからせるために、あなたがたは招かれて一つの体とされたのです。いつも感謝していなさい」
(コロサイ3:12−15)とあって、勧められている通りです。
内側に実が結ばれると、それは外側に現れます。それは、実を結んでいることが外側からわかるということです。主イエスの愛とは、「友のために命を捨てること」と言われています。(ヨハネ15:13)
これは、主が十字架で命を捨ててくださって表された愛です。主は私たちを友と呼んでおられます。そして、御心を余すところなく示して下さっているのです。神の愛は犠牲の愛、アガペーの愛ですが、昨日の読書会の課題図書、「妻と共に生きる」の中に、愛とは、「人間を幸せにしようとする意志、それが愛である」という言葉がありました。愛とは意志だとあるのです。それでもキリストのアガペーの愛には及ばないのですが、人を幸せにしようとする意志を持ち、犠牲をはらってそのように行うなら、それは神の栄光を表す生き方であるといえるでしょう。
主イエスは、私たちを選んだと言われています。コロサイ書も神に選ばれ、聖なる者とされ、愛された者と言っています。私たちが主イエスを選んだのではなく、主が私たちを選び、今ここに任命しておられるのです。キリストの選びと任命によって私たちはいまここにあるのです。キリストが任命されたなら、それを軽んじてはなりません。権威ある方が「あなたを任命した」と言われているのです。その理由は、「出かけて行って実を結ぶ」こと、「その実が残ること」であると言われています。人が、主イエスを救い主として信じて救われること以上に、この世で幸いなことはありません。主は永遠の命を与えてくださいます。これ以上の勝利、解決はないのです。これを伝える方法はいろいろありますが、クリスチャンの生活の実を通して神の栄光を表すことによって、人はキリストを認めることができるのです。先に救いを受けたクリスチャンが何を語り、何を大切にし、どのように生きているかを人は見るのです。
その言葉が祝福に満ちた親切な言葉であり、その態度がキリストにあって謙遜であり、人に対して慰めや励ましを常に与えるなら、人はそこにキリストを見るのです。御霊に満たされ、信仰によって生活するとは、日々そのように変えられていくことです。何かに困っている人を具体的に助ける力はないかもしれません。しかし、聖書は、「喜ぶ人と共に喜び、泣く人と共に泣きなさい。」(ローマ12:15)と教えています。心を寄り添わせて同じ思いになることはできるのです。心を合わせて問題解決のために祈ることができるのです。「わたしの名によって父に願うものは何でも与えられるようにあなたがたを任命した。」(ヨハネ15:16)「わたしの名によって願うことは、何でもかなえてあげよう、こうして、父は子によって栄光をお受けになる。わたしの名によってわたしに何かを願うならば、わたしがかなえてあげよう」(ヨハネ14:13、14)祈りは力です。イエスの名によって祈るとは、イエスの権威によって祈ることです。祈ることに躊躇はいりません。私たちには何の権威もなく力もありません。しかし、真の神、イエス・キリストが、私の名によって祈り、その祈りが聞かれるためにあなたがたを任命したといっておられるのです。信じなければなりません。
そして、再び「互いに愛し合いなさい。これがわたしの命令である」(ヨハネ15:17)といわれました。愛し合うことは主イエスの命令であることに注意しなければなりません。お願いとか、依頼であるなら、それに対して選択することは可能です。それはできませんとか、できます。やってみましょうとか返事をすることができます。しかし、上からの権威による命令については選択することはできません。愛することは主の命令なのです。命令だからしかたなくそのようにするなら、それは良い結果は望めないでしょう。しかし、心から、心の底から主を愛し、主の御言葉を愛するなら、喜んで従うことができるのです。
御霊の実を思い出してください。愛の実、平和の実、喜びの実、寛容、慈愛、善意、忠実、柔和、自制が形作られるのです。
私たちの信仰は実が実り、その実が残る信仰であることを心に深く留めましょう。日々御霊に満たされ、生きておられる神を表しましょう。




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