阪神チャペルセンター
  礼拝メッセージ
 
2016年2月28日
仕えるために来た
マルコ10章35−45節

 一般に人が重要と思うことは、この世での生活ではないでしょうか。
生きがいのある仕事、重要なポスト、人が称賛するような生活、そのようなものに心が引かれ、また努力を重ねていきます。人は、自分が生きている目に見える世界、この世の価値観をもって生きるものです。
主イエスは、ご自分がこの世に来られたのは、全世界の贖いとして十字架にかけられ、それを完成するためであることを良くご存知でした。十字架の死と復活です。ですから、弟子たちには三度も十字架の死と復活を予告されました。
マルコ10章32節から34節では、十字架の死と復活を弟子たちにしっかりと話されました。毅然として、先頭にたってエルサレムへ向かわれる主の御姿に弟子たちは驚いたのです。主の十字架の贖いは、これ以上ない大切な、大切な主の愛の業でした。主の十字架の贖いがなければ人は罪の中に滅びなければならないのです。
これ以上大切なことはないことを告げ知らせてくださった主の前に、ゼベダイの子、ヤコブとヨハネの兄弟がやって来ました。ヤコブとヨハネはガリラヤ湖で漁師をしていた時に、主に召されて弟子となりました。マルコ1章によると、ペトロとアンデレに続いて、舟の中で網の手入れをしている時、主に召されて、父ゼベダイと、雇人たちを舟に残して、イエスに従ったとあります。
主が十字架の苦難を話された時と並行して、ヤコブとヨハネは自分たちの望みを主イエスに願いました。「先生、お願いすることをかなえていただきたいのですが」。(マルコ10:35)
「何をしてほしいのか」と、答える主に、「栄光をお受けになるとき、わたしどもの一人をあなたの右に、もう一人を左に座らせてください」(マルコ10:37)と言いました。もうすぐ十字架に架かられる主の心を知ろうともせずに、「あなたが権力の座につかれたら、私たち兄弟を一番目と、二番目に高い座に就かせてください」と、頼んだのです。
まことに人の世の考え方をそのままに表した二人でした。高い地位に就きたい。他の弟子たちより重く用いられたいという気持ちでした。
当然主は、「あなたがたは、自分が何を願っているか、分かっていない」と言われました。もうすぐ主が受けられる苦難、「わたしが飲む杯、わたしが受けるバプテスマ」、と言い表された十字架を共に受けることができるかとの問いに、「できます」と答えたのでした。主イエスは、たしかにあなたたちもこれから苦難を受けるであろうが、私の左右に座るのは、私が決めることではないと、諭されました。
 この兄弟はそれで主の前から一旦下がったようですが、これでおさまらないのは他の10人の弟子たちでした。ヤコブとヨハネの厚かましい願いに腹を立てました。自分たちを出し抜いて地位を勝ち取るために、主に願い出たことに怒ったのです。もともと弟子たちには、「誰が一番偉いか」と、論争するようなところがありました。マルコ9章33節以下には、主イエスに、「(カファルナウムに)来る途中で、何を議論していたのか」と聞かれたという記事があります。彼らは黙ってしまい、すぐにお答えできませんでした。誰が一番偉いかと議論していたからです。大きな声で言い合っていたのです。さすがに主にお話しするのに恥ずかしかったのです。この時主は、「いちばん先になりたい者は、すべての人の後になり、すべての人に仕える者になりなさい」。(マルコ9:35)すべての人のしもべになること教えてくださいました。
そのようなことがあってからもまた、弟子たちはヨハネとヤコブのことで腹を立てたのです。人間的な思いしかなかった弟子たちでした。
この事態を主はすぐに解決されました。この世の権力と、神の国の権力の違いを示されたのです。この主イエスの時代、ローマ帝国が支配していました。ローマ皇帝は文字通り世界の権力を手にしていたのです。ローマ皇帝の言葉にすべての人が従い、その望むことはなんでも行うことができたのです。すべての人を支配することができ、人の生死に関してまで手に入れていたのです。生殺与奪(せいさつよだつ)という言葉の通りです。しかし、主イエスが教えられたのは、偉いか偉くないかの基準は「仕える」「奉仕」であるということでした。この世と全く逆です。聖書は一貫して「身を低くする」ことを教えています。「神は、高慢な者を敵とし、謙遜な者には恵みをお与えになる」(ヤコブ4:6)とあります。
主は、「あなたがたの中で偉くなりたい者は、皆に仕える者になり、いちばん上になりたい者は、すべての人の僕になりなさい」と教えられました。このお言葉のとおりに主は最後の食事の席上、僕のする仕事をされました。席を立ち、上着を脱ぎ、手ぬぐいを腰にして、たらいに水を汲み、弟子たちの足を洗い、拭われたのです。僕として奉仕されたのでした。「わたしがあなたがたにしたとおりに、あなたがたもするようにと、模範を示したのである」(ヨハネ13:15)主は模範を示されました。「キリストは、神の身分でありながら、神と等しい者であることに固執しようとは思わず、かえって自分を無にして、僕の身分になり、人間と同じ者になられました。人間の姿で現れ、へりくだって、死に至るまで、それも十字架の死に至るまで従順でした。」(フィリピ2:6−8)主は遜(へりくだ)って僕の姿を現されました。高慢さはみじんもなく、ただ仕える姿でした。
主は、「人の子は仕えられるためではなく仕えるために、また、多くの人の身代金として自分の命を献げるために来たのである」
(マルコ10:45)と話されたのです。
時に心のむなしさを訴える人がいます。何をもってしても心がむなしく寂しい。常に不安が付きまとう。さみしさが心を覆う。心が塞がれてしまう。そのような思いを持つことがあるのです。
この世には思いのままになることはあまりありません。自分の心を満たしてくれるものはないのです。何かあったとしても、それは一時的なもので、また心は空しくなってしまうでしょう。しかし、命を与え、満たして下さる主の御言葉を受け入れ、救い主である主イエスに従うなら、心は満たされ、むなしさは霧散(むさん)するのです。
ヨハネとヤコブは若いとき、「雷の子」と呼ばれるほど気の荒い人たちでした。そして、地上の権力も名誉も欲しかったのです。しかし、主の十字架の姿を目の当たりにし、ヨハネは、イエスの母マリヤを託され、どの弟子よりも長く生きてヨハネ福音書、黙示録、ヨハネの手紙を著すことができました。また、兄のヤコブは、弟子たちの中で一番最初に殉教しました。(使徒12:1、2)彼らは地上での権力を持つのではなく、宣教の働きをなし続けることができました。
どのように人間的な弱さをもっているとしても、主に従い続けるなら、その弱さは変えられ、主の御手の中で御心にかなう者に変えられていきます。
救い主である主イエスを心に受け入れること。今まで知ることがなかった心の罪、自己中心を悔い改め続けること。心に常に主イエスをお迎えすること。主の御言葉に従い続けること。これが人の謙遜さなのです。
主はそのような人をお召しになり、賜物とタラントに満たしてその用に用いられるのです。高慢な者を退け、へりくだる者に恵みを給うので
す。主イエスが教えてくださるように、生きていくことの素晴らしさを日々体験するクリスチャンでありたいと思います。御言葉が実現するクリスチャンでありたいと思います。主イエスが仕えられるためではなく、仕えるために来られた方であることを心に覚えましょう。私たちもこの主イエスの御姿に学び、神に仕え、人に仕ええることをモットーにする人生であるなら、本当の幸いな人となるでしょう。
私たちの命と生活は主イエスからの賜物です。そして、それは自分のためにあるのではなく、神の栄光のためにあることを忘れてはなりません。
私たちが神に仕え、人に仕える姿勢をとり続ける時、神はその報いを天で豊かにお与えくださいます。私たちの信仰と望みとは神にあります。
私たちの家庭、職場、学校、私たちのおるところすべての中で、
「仕える者」として用いられるようになりましょう。愛と平和が具体的に表されるのです。神が多くの恵みを下さることを感謝します。




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