阪神チャペルセンター
  礼拝メッセージ
 
2016年3月6日
「一人も滅びないために」
マタイ18章10−14節

 3月に入りました。今年のイースターは3月27日です。クリスマスと違って、イースターの日は毎年違ってきます。それは、春分の日の直後の満月直後の日曜日がイースターと定められているからです。初代教会時代には、イースターを祝うことをしませんでした。それは、主イエスは日曜日に復活されたので、日曜日が主の復活の信仰告白だったのです。私たちが、今、日曜日に集まり、礼拝をささげているのは、主イエスが復活されたことの証しであり、信仰の告白なのです。
復活の主を崇め、自分自身を生きた聖なる供え物として神にささげる礼拝は、御心にかなう礼拝であり、私たちの信仰と生活の基本です。
紀元325年に第一回ニカイヤ会議という公の教会会議が開かれて、三位一体について、また教理について審議されました。その時、イースターの日の決め方も決定されたのです。約1700年前の決定が今も守られています。イースターの一週間前は受難週で、主の十字架の苦難を忍び、悔い改めの時を過ごしますが、実は46日前からレント(4旬節)に入ります。イースターは復活の輝かしい喜びの時ですが、その前に主イエスの十字架の苦難を思い、罪の贖いを感謝し、悔い改めの日々をおくりたいものです。
さて、主イエスの弟子たちは、誰が一番偉いのかということに大変心を惹かれていたようです。マタイ18章1節以下に、主に「いったいだれが、天の国でいちばん偉いのでしょうか」と、聞いています。それで、主は一人の子供を呼び寄せられて、彼らの中に立たせて、「はっきり言っておく。心を入れ替えて子供のようにならなければ、決して天の国に入ることはできない。自分を低くして、この子供のようになる人が、天の国でいちばん偉いのだ。わたしの名のためにこのような一人の子供を受け入れる者は、私を受け入れるのである」と言われました。主は小さい者、弱い者を常に守り、その存在を認め、大切にしてくださるお方です。悔い改めて、子供のような謙遜さを持つ者にならなければ、偉いどころか天の国に入ることができないと言われたのです。
主イエスは、一人の小さな者がどれだけ大切であるかを示し、深い悔い改めの必要を説かれた後、迷い出てしまった一匹の羊のたとえ話をなさいました。羊は、言うまでもなく戦う牙もなく、迷いやすく自分で身を守ることができない動物です。ヨハネ10章には、良い羊飼いである主イエスと羊の関係がいきいきと記されています。主イエスは、「わたしは良い羊飼いである。良い羊飼いは羊のために命を捨てる」「わたしが来たのは、羊が命を受けるため、しかも豊かに受けるためである」
(ヨハネ10:10、11)と、教えられて、ご自分が羊にたとえられている世の人の救いのために来られたことを強調なさいました。
羊飼いは迷ってしまっていなくなっている1匹の羊をそのままにすることはできません。羊は自分で帰ってくることはできないのです。
谷に落ちてしまって、そのまま命を失ったり、獣に襲われてしまう可能性が非常に高かったのです。羊飼いはそのような1匹を、99匹を山に残したまま探し求めるのです。楽な仕事ではありません。山に踏み入り、危ない崖を上り下りし、足元の悪い所を、道のない所を探し続けなければなりませんでした。見つけなければ命がないという切迫感をもって羊飼いは探し続けるのです。当時の羊飼いは、羊を探すためにどのような努力も惜しみませんでしたが、不幸にも羊を連れて帰れなかった時は、羊の毛か骨を持ち帰って、羊が死んだことを証明しなければなりませんでした。しかし、その羊が生きて見つかったら、どんなにうれしいことでしょうか。
羊飼いが羊を探す動機は何でしょうか。良い羊飼いは、羊を愛するのです。羊を100匹で一つとして考えるのではなく、99匹残っているから、1匹いなくなっても仕方がないとは考えませんでした。個々を愛されるのです。言い換えれば、主の愛は、個人に対する愛であるということです。
迷っている一人が帰るまで、心を痛めておられるのです。
人が何か失敗して悪い結果になると、私たちは、「あなたが間違って愚かなことをした。あなたは正しい選択をすることができなかった」と、考えることがあります。自業自得だからといって見放すこともあるのです。しかし、羊飼いは、羊が迷ったのは、羊飼いの後についていかなかったからといって、そのままにしませんでした。
たとえ、愚かさのために道を誤ったとしても、羊飼いは羊のために自分の命をかけて救おうとするのです。人は愚かで間違うものですが、それでも主イエスは人を愛されるのです。
主の愛は犠牲をはらう愛です。その対象がどのような者であれ、主は命をかけて愛されるのです。
羊が羊飼いによって見いだされ、帰ることができた時、大きな喜びの声が上がります。魂の救いの喜びの声です。
先に主イエスを受け入れた者は、この愛に応答するものです。「良い羊飼い」に従う羊が迷ったり、道を踏み外すはずがありません。
羊飼いがどのように導かれるのか、注意深くその御声を聞くのです。
さて、クリスチャンの過ちの一つに、恵みに慣れるということがあります。かつて罪深い自分を自覚し、十字架の前で悔い改め、神に立ち返った経験を持つことができた。救いの喜びを体験した。恵みによって奉仕に導かれ、用いられるようになった。すべて神の恵みのなかにいる体験をし続けています。しかし、クリスチャンであっても、この世に生きているわけですから、さまざまな世のことがあります。世の力は強いのです。主イエス中心に生きたいと思っても、世の事に心を使わなければならないことがあります。しかし、気を付けないと知らず知らずのうちに主イエスの道からそれてしまうことがあるのです。あまりに自分の思いが強いと、最初は少し、でもだんだんと大きく道がそれてしまっていたということになってしまうかもしれません。そして、いつの間にか主イエスを見失って迷うのです。それは、大変危険な霊的な危機であると言えます。信仰が形式的なものになってしまい、魂は飢え渇いているのに、主イエスを求めようとしない。干からびた魂がうめいているような状態なのに、そのままにしておく。喜びも感謝もなく、そのうちにつぶやきと不信に陥っていく恐ろしい状態です。誰しもが陥りやすい過ち、神から離れてしまう罪です。
私たちは、良い羊飼いに聞き従う良い羊でありたいのです。それは、賢いとか、偉いとかではありません。ただ、幼い子供が素直に従うように、羊飼いの後に従っていくことなのです。そうすれば、羊飼いは間違いなく、与え、潤し、満たし、喜びに満ち溢れさせてくださいます。命に満ち溢れさせ、ご自分の御心を示し、豊かに用いてくださるのです。
さて、本来迷い出た羊とは、まだ主イエスを受け入れていない魂と考えることができます。神の御心ではっきりしていることは、「これらの小さな者が一人でも滅びることは、あなたがたの天の父の御心ではない」(マタイ18:14)ということです。
私たちの周りには迷ったまま、それにすら気づかない多くの人々がいるのです。もう一度これらの人々を思い、この人が救われるのは、神の御心だという信仰を持ちましょう。その信仰に立ちましょう。探し求め、尋ね求め、救われるまで祈り、働きかけるのです。人が救われるのは神の業です。しかし、探し、伝えるのは人の働きなのです。
イースターを前に、今年のイースターに信仰告白に導かれ、魂の救いを受ける人が起こされ、天でも地でも喜びの声が上がるように、祈り、用いられましょう。
主は私たちと共におられ、共に働いてくださるお方です。どんなに険しい道も、暗い道も、手を取り、間違いなく歩めるようにと導き続けてくださいます。私たちにはできないと思うようなことも、主にはおできになるのです。私たちに必要なのは、信仰であることを覚えましょう。
私たちのために命を捨てて愛してくださる主に感謝をささげましょう。
主は生きておられる救いの神なのです。




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