阪神チャペルセンター
  礼拝メッセージ
 
2016年3月13日
「人を汚すもの」
マルコ7章14−23節

 来週は受難週を迎えます。復活の主にお目にかかるにふさわしく整えられた信仰に生きたいものです。
先週の日曜日6日の朝、加古川福音キリスト教会の楠橋清隆先生が急性心筋梗塞で召されました。61歳の地上での生涯でした。先生は筋萎縮症という病気をもっておられましたが、伝道者、牧師として主に召され、その召しを全うされました。突然の訃報でしたが、また再会するという希望が与えられていることが何よりの慰めです。
病院に駆け付けた時はすでにもう息がありませんでした。少し苦しそうな顔をしておられました。翌日弔問した時は安らかな顔になっていました。前夜式の直前に顔を見たら、口元が微笑んでいました。だれも顔に触っていないのに、自然に表情が変わったのだそうです。主の実腕に抱かれて、永遠の憩いにつかれたことがよくわかりました。
 誰しもがこの地上での働きを終わる時が来ます。私たちは与えられている日々を大切にし、その時まで心から主に仕え、主に用いられていきたいものです。
さて、主イエスがこの世にお生まれくださった目的は、世の人の救いのためです。アダムとエバが罪を犯し、その罪によって人は死ぬものとなりました。神との平和が破られ、罪の中に苦しみながら生きなければならないようになってしまいました。その罪を解決し、神との平和を取り戻すために主イエスは来られたのです。
 人はなかなか罪ということに目が開かれません。イエスの時代には様々な宗教的指導者がいました。ファリサイ派はその一つです。彼らは分離派ともいわれて、清さを強調しました。しかし、その清さは、主イエスの教えられるところとは全く異なっていました。外側の清さなのです。ファリサイ派は多くの口伝による戒めを守る人たちでした。イエスの弟子たちが手を洗わないで食事をするのを見て、主イエスに「なぜ、あなたの弟子たちは昔の人の言い伝えに従って歩まず、汚れた手で食事をするのですか」と聞きました。ファリサイ派にとっては、手を洗うとは、衛生面でのことではなく、重要な掟であり、十戒を守ることと同じように大切と考えていました。手を清める方法とは、既定の量の水をまず両手にかけて、指先を上に向けて水を手に沿って下に流し、手首から下に落とすようにしなければなりませんでした。汚れた手にふれた水は汚れているので、もう一度水が指の方に戻ってしまうと、指が再び汚れてしまうからです。次に指先を下にして、反対の方から水をかけ、最後に片手ずつ反対の手でこすって清くしたのです。これを食事の前だけでなく、食事の間も料理が変わるたびに行いました。こうすることが神の御心にかなうことであると固く信じていました。主イエスは、はばからずにファリサイ派を「偽善者」と呼びました。神が定められた掟ではなく、人が定めたことを守り、人にもそのように教えていることを、十戒を用いて指摘されました。「父と母を敬え」という教えがあるにも関わらず、「コルバン」という言葉を使って、父母を助けようとしないことを例にとられたのです。「あなたにさしあげようと思ったのですが、神にささげました」と言えば、父母に援助を断ることができたのです。モーセの十戒と矛盾した教えです。ファリサイ派が教えたのは、厳格に規定、儀式を守ることでした。主イエスが常に教えられたのは、心の中から生まれてくる、憐み、親切こそが律法以上のものであるということだったのです。
 主イエスは、群衆を呼び集められて、「皆、わたしの言うことを聞いて、悟りなさい。外から人の体に入るもので人を汚すことができるものは何もなく、人の中から出てくるものが、人を汚すのである。」(マルコ7:14、15)と教えられたのです。
「清い」とか、「汚れている」とは、体の清潔さとは関係ないことです。心の問題です。清いというのは、その人が神を礼拝し、神に近づくことができるようになっているという意味です。「汚れている」とは、神を礼拝し、近づくことができない状態を言っているのです。その心の状態は、いくら水で手をあらってもどうすることもできないのですが、ファリサイ派は、熱心にこれを行っていました。ですから、主イエスは彼らを偽善者と呼んだのです。ルカ18章に、ファリサイ人と、徴税人の例え話が記されています。ファリサイ人は、自分は正しい人だと、うぬぼれて、他人を見下していました。ファリサイ人と、徴税人が祈るために神殿に上りました。ファリサイ人は、立って心の中で「私はほかの人のように、奪い取る者、不正な者、姦通を犯す者でなく、また、この徴税人のような者でもないことを感謝します。わたしは週に二度断食し、全収入の十分の一を献げています」。と言いました。この祈りとも言えない祈りの問題点は、自分で自分を義としていることです。神の前に正しい者と自認していますが、これ以上ないほどの高慢の罪に満ち溢れているのです。自分の行いが立派であると胸を張っていました。他の人や、徴税人を見下していました。神がお嫌いになるのは、高慢な心です。「神は高慢な者を敵とし、謙遜な者には恵みをお与えになる」(Tペトロ4:5)のです。自分の義を誇る者は退けられるのです。一方、徴税人は遠くに立って、目を天にあげようともせず、胸を打ちながら、「神様、罪人のわたしを憐れんでください」と祈りました。自分の罪深さが良く分かっていて、弱さが悲しく、苦しかったのです。神に義とされたのは徴税人でした。ここでも主イエスは、「だれでも高ぶる者は低くされ、へりくだる者は高くされる」(ルカ18:14)と教えられました。
人は皆罪をもっています。自己中心の罪です。愛がないのです。愛があれば人に害を加えることはありません。「姦淫するな。殺すな。盗むな。むさぼるな、そのほかどんな掟があっても、『隣人を自分のように愛しなさい』という言葉に要約されます。愛は隣人に悪を行いません。だから愛は律法を全うするものです」(ローマ13:9)人を愛する者は、律法を全うしていることになるのです。主イエスは心について教えられました。食物はお腹に入るのであって、心に入るのではありません。お腹に入ったものは消化され、体外に排出されていきます。心を汚すことはないのです。しかし、人の心の中にある悪いもの、罪が人を汚すと主イエスははっきりと教えられました。「中から、つまり人間の心から、悪い思いがでてくるからである。みだらな行い、盗み、殺意、姦淫、貪欲、悪意、詐欺、好色、ねたみはみな中から出て来て、人を汚すのである」                   (マルコ7:21−23)
創世記にあるノアの時代、神は人が常に悪い事ばかりを心に思い計っているのに心を痛められました。悪い事ばかり、神が悲しまれ、神の御心に背くことばかり考え、行動し、生活する。人の罪の姿です。それはノアの時代だけではありません。いつの時代も、そして、今もそうなのです。神が喜ばれないことばかりを人は計り行うのです。罪の心です。暗黒です。その報いは破滅でしかありません。人が人を憎み、命を奪ってしまうというニュースが毎日報道されるのです。
心を清くするにはどうしたらよいのでしょうか。そのために来てくださったのが主イエス・キリストです。主は罪とはなんの関わりもない方、神の独り子です。罪あるものは罪を取り除くことはできません。罪のないお方だからこそ、人の罪を許すことができるのです。それには犠牲が伴いました。十字架の犠牲です。人の罪を赦すため、主イエスは十字架に架かられました。その流された血はすべての人を贖う血潮です。人はどのようにして罪が許され、新しい命と希望に生きることができるのでしょうか。主イエスの十字架の死と復活が自分の罪のためであると心に信じ、告白することによってです。罪から救われない人はいません。主イエスは誰でも、どのような人でも救い、清め、受け入れてくださるのです。罪が人を汚したとしても、その罪の力がどんなに強くとも、主イエスの救いにあずかることができます。イースターの前に私たちは自分自身の心を顧みなくてはなりません。主イエスのよろこばれない思い、罪があるなら、直ちに悔い改める。主は速やかに赦してくださいます。罪があるまま神の前にはでられないのです。しかし、主イエスに罪を告白し、祈るなら、ただちに神は許し、受け入れ、迎え入れてくださることを感謝しましょう。




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