阪神チャペルセンター
  礼拝メッセージ
 
2016年3月20日
「十字架の道」
マタイ26章36−46節

 今日から一週間は、主イエスが十字架に架かられた受難週です。
主は金曜日に十字架に架かられ、三日の後、日曜日の早朝復活されました。クリスチャンは、主の復活を記念して、日曜日に集い、礼拝をささげるようになりました。毎週日曜日に礼拝をささげるということは、主の復活を記念していることなのです。「神はこの方を死者の中から復活させてくださいました。わたしたちは、このことの証人です」(使徒3:15)と、ペトロは説教しましたが、私たちも主の復活の証人です。
受難週の日曜日は、棕櫚の主日と言って、イエス様が子ロバに乗ってエルサレムにお入りになった日です。群衆は服や木の枝を道に敷き、「ダビデの子にホサナ。主の名によって来られる方に、祝福があるように。いと高きところにホサナ」と叫んで、主イエスと共に入城しました。
ホサナとは、「今救ってください」という意味があって、詩編118編の言葉が引用されているようです。
マタイは、ゼカリヤ書9章の言葉が成就したことを記しました。メシアが来られたのです。「シオンの娘に告げよ。見よ、お前の王がお前のところにおいでになる。柔和な方で、ろばに乗り、荷を負うろばの子、子ろばに乗って」。シオンの娘とは、エルサレムを指すことばで、王がろばの子に乗って来られた。この方は、高ぶる方ではなく、柔和な王であることが預言されています。
この時、弟子たちも群衆も、エルサレムで何が起こるのか、予想することはできませんでした。エルサレムの人々は、主イエスがどなたなのかを悟りませんでした。「いったい、これはどういう方だ」「この方は、ガリラヤのナザレから出た預言者だ」と言ったのです。預言者とは、神がその職務に召しだし、神の言葉を人々に告げる人でした。人が召されて預言者になったのです。それは尊い職務ですが、あくまでも人間なのです。バプテスマのヨハネは最後の預言者と言われています。
マタイによる福音書によれば、エルサレム入城からゲッセマネにおける逮捕まで、主はさまざまな教えをされています。常に目を覚まして主を待ち望むようにと、諭されました。「天地は滅びるが、わたしの言葉は決して滅びない」(マタイ24:34)と力強く教えられたのです。
弟子たちと最後の食事をされた後、主は弟子達と共にゲッセマネへ行かれました。そこで主イエスは弟子たちと少し離れてお祈りをされました。主は弟子たちに、「私が祈っている間ここに座っているように」と言われたのです。主は悲しみ悶え、「父よ、できることなら、この杯をわたしから過ぎ去らせてください。しかし、わたしの願いどおりではなく、御心のままに」と祈られました。弟子たちは眠っていました。一度、二度三度と主は弟子たちのところに来られたのですが、弟子たちは目を覚ましていることができませんでした。主は、「父よ、わたしが飲まないかぎりこの杯が過ぎ去らないのでしたら、あなたの御心が行われますように」(マタイ26:42)あなたの御心が行われますように」と、祈られたのです。十字架に向かって進んでいくことをご自分の内に確認なさったといえるでしょう。
主は、ペトロ、ヤコブ、ヨハネの3人の弟子たちにここに座っているようにと命じられたのですが、彼らは最後まで眠っていました。
主が苦しみに悶えて祈っているのに、事の重大さがわからなかったのです。人には、大切な決断の時、神の前に一人で祈ることがあるのです。一見孤独とも思える信仰の祈りの時です。しかし、そのような時、主イエスが共におられて、執成(とりな)しておられることを忘れてはなりません。私たちは常に祈ることを教えられていますが、大切な祈りであればあるほど、神の前に一人で祈らなければならないことがあるのです。
人は何事についても、自分の思いを通したいと願うものです。
しかし、主イエスの祈りは、「あなたの御心がなりますように」という祈りでした。ここに神に対する絶対的な信頼があります。
神の御心は完全だということです。子供がその父親を完全に信頼するように、主イエスは、神を「アッバ、父よ」と呼びかけられて祈ったのです。祈りは力です。十字架という苦難を受けて、その使命を全うするという力に満たされました。それは、「立て、行こう、見よ、わたしを裏切る者が来た」(マタイ26:46)の御言葉に表されています。
主イエスは捕らえられ、大祭司の元に連行されました。何とかして主イエスが神を冒涜したという証言を得たかったのですが、それはできませんでした。しかし、主の「人の子が全能の神の右に座り、天の雲に乗って来るのを見る」という詩編の言葉に、冒涜の罪に定めたのです。
主イエスは唾をかけられ、こぶしで殴られ、平手でたたかれました。夜が明けると、主は総督ピラトの元に送られました。死刑判決を下せるのは、ローマの総督だったからです。主は、ピラトの尋問に何もお答えになりませんでした。ピラトは主に罪がないことがわかっていたので、祭りの時に囚人を釈放する習慣によって、なんとか解放したいと思っていたのですが、大祭司たちが群衆を説得して、バラバという囚人を開放するように働きかけたので失敗してしまいました。ピラトは、自分はこの件に関しての責任はないことを表明した後、主を鞭うたせて十字架にかけるために引き渡しました。ピラトの官邸でローマ兵たちは、主をさんざん侮辱し唾をかけ、葦の棒で頭をたたき続けました。いばらの冠をあたまに載せたのです。その後、主は、十字架を担いゴルゴタへの道を進まれました。主は、朝9時に十字架に架けられ、午後3時に息を引き取らました。ヨハネによる福音書には、主は最後に「成し遂げられた」(ヨハネ19:30)と言って息を引き取られたとあります。「すべてが完了した」という意味です。主イエスが来られたのは、全世界の罪の贖いのためでした。「人の子は仕えられるためではなく、仕えるために、また、多くの人の身代金として自分の命を献げるために来たのである」(マルコ10:45)とある通りです。罪を贖うためにこの世に来てくださったのです。その方法は十字架でした。
人が罪から解放され、救われて永遠の命を得るためには、神と和解しなければなりません。人は、罪のために神との正しい関係がもてなくなってしまったのです。神は人のために十字架という救いの橋を架けてくださいました。罪は主イエスがすべて引き受けてくださったのです。人は救われるために何をしなければならないのでしょうか。フィリピの牢屋番は、パウロとシラスに、「救われるためにどうすべきでしょうか」とひれ伏して尋ねました。その答えは、「主イエスを信じなさい。そうすれば、あなたもあなたの家族も救われます」(使徒16:31)でした。その夜、牢屋番と家族は主イエスを信じ、救われ、洗礼を受けました。神を信じる者になったことを家族ともども喜んだとあるのです。
救われるための代価は、主イエスが十字架の犠牲で払われました。このような救いの道が備えられているこの恵みの時代は、誰でも救われるすばらしい時です。人は神によって創造された者ですから、神から離れては真の命はありません。精いっぱい生きたとしても、いつかその栄誉も栄光も過ぎ去るのです。人は見えないところの罪のために、人生半ばで失脚することもあるのです。神から離れては本当の命はありません。 主イエスが十字架を背負って歩まれたゴルゴタへの道は、「悲しみの道」と呼ばれています。残酷な十字架刑を受けるために登られた道は、悲しみの道でした。しかし、敗北の道ではなく、罪の贖いが完成された喜びの道、救いの道、命の道、栄光の道だったのです。私たちは救われるために何かをする必要はありません。信仰により、恵みにより救われるのです。
私たちは、この愛の御業を受け入れる者となりたいのです。この愛がいかに大きいものであるか。神が、御子を十字架に架けるほどに私を愛してくださっているということを、しっかりと受け入れる者でありたいのです。そして、神の愛に応答する者とさせていただきたいのです。私たちの命は、この地上の命だけではありません。主イエスの贖いによって永遠の命に今生かされているのです。復活された主イエスの命で生かされているのです。「神からいただいた恵みを無駄にしてはいけません」(Uコリント6:1)とあります。神の愛にどのように答えていくのか、考えながら、祈りつつ、十字架を思いつつ、受難週に臨みましょう。




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