阪神チャペルセンター
  礼拝メッセージ
 
2016年3月27日
「国籍は天にあり」
コリントU4章14-18節

 「主イエスを復活させた神が、イエスと共にわたしたちをも復活させ、あなたがたと一緒に御前に立たせてくださると、わたしたちは知っています。すべてこれらのことは、あなたがたのためであり、多くの人々が豊かに恵みを受け、感謝の念に満ちて神に栄光を帰すようになるためです。だから、わたしたちは落胆しません。たとえわたしたちの「外なる人」は衰えていくとしても、わたしたちの「内なる人」は日々新たにされていきます。わたしたちの一時の軽い艱難は、比べものにならないほど重みのある永遠の栄光をもたらしてくれます。わたしたちは見えるものではなく、見えないものに目を注ぎます。見えるものは過ぎ去りますが、見えないものは永遠に存続するからです。」
 イースターを心よりお祝いします。イースターは、「東の星」という意味ですが、復活祭を象徴的に表しているのです。夜明け前の漆黒の東の空に、明けの明星が輝き、闇を払しょくし、輝かしいさわやかな朝を示し、繰り返す光の復活を祝うのです。光は命を現します。光は聡明であり、わかる、理解することを示し、理解は言葉によって物事を明らかにします。聖書は、「初めに、神は天地を創造された。」(創1:1)と示しています。そしてヨハネ福音書には、「初めに言があった。言は神と共にあった。言は神であった。この言は、初めに神と共にあった。万物は言によって成った。成ったもので、言によらずに成ったものは何一つなかった。言の内に命があった。命は人間を照らす光であった。光は暗闇の中で輝いている。暗闇は光を理解しなかった。」とあります。(1:1―5)言(ことば)は理性であり、明らかなことです。万物は言葉で成り立ち、全てが明らかになり、言い換えれば光として闇を克服して命を与えることになるのです。闇は不安、混乱、迷い、挫折、絶望です。
「万物は言によってなった。成ったもので、言によらずになったものは何一つなかった。」(:3)そして「この言の内に命があった。命は人間を照らす光であった。」光は暗闇の中で輝いている。そして闇は「光」「命」を理解しなかったと指摘しています。            1
万物の成り立ちは光と命によっているが、創造主なる神様を受け入れないところには闇が覆い、言葉も理性も見失われて、挫折と混乱、迷いと不安が覆うことになります。全知全能なる創造主、神様はその偉大さのゆえに、人間の有限性で分かることは不可能です。真実に創造の神の英知は「理解して信じるのでなく、信じて分かる」ものです。
 現代人は科学的なものの考え方で、「証明できない」ものは存在しないとします。しかし、人は愛し合って生きるのです。男と女が愛し合って家族が生まれます。愛することは信じて見えない愛が見える生活となります。
 「神は御自分にかたどって人を創造された。神にかたどって創造された。男と女に創造された。」(創1:27)人は神に似せて創造されたのです。そして「男と女」に創造されたとあります。男と女に創造されたことは、正に「神は愛である」(Tヨハネ4:8)と記されているように、人間の本質は「男と女」が愛し合って初めて人が存在することになります。愛は見えるものでなく、お互いが信じあうことの中で一つになることができるのです。本来、人間は神様に似せて造られたということは、神様の命である、愛に生きることにほかなりません。
「いまだかつて神を見た者はいません。わたしたちが互いに愛し合うならば、神はわたしたちの内にとどまってくださり、神の愛がわたしたちの内で全うされているのです。」(Tヨハネ4:12)
愛し合って生きるところに神は居て下さるのです。本来人間は、神様の愛に生きる時に神の国に生きるのです。神の愛は人を生かす命です。命は希望であり光です。神の国とは神が共におられることであって正に天国であるのです。しかし、神様を見失うことは、神様の愛を失うことになり、神様の愛を失って何が残るのでしょうか。人間の自己欲が「愛」として自己中心の道となり、動機となるのです。そこには神様を忘れた自己愛を中心に生きる人生しかないのです。どんな人でも人は幸せに生きたいと願うものです。しかし、自分だけの幸せを願うところ、自己愛を中心に生きる時に、自分の満足だけを求めるようになります。人と共に生きる時、人を思いやる、共に分かち合うことができなくなる時、そこに真実の交わりは生まれま
せん。交わりは自己愛では成り立ちえません。「共に」生きるには、共に生きる人
の願いを受け入れることなくしては成り立ちえないのです。言い換えれば自己愛は、自己主張であり、自己中心であるのです。自分では理想を求め、自己充足を求めながら、現実には自己主張となり、そこには係争と葛藤の争いとなり、争いと闇の世界となるのです。言い換えれば、神様の真実の愛が失われているのです。主イエスは「友のために自分の命を捨てること、これ以上に大きな愛はない。」
(ヨハネ15:13)と言われました。真実に愛すること、真実の愛は、神様の愛であって、「友」と呼ぶ時「友のために命」を犠牲にしてでもその友を助ける、その友のために自己を捧げる、そこに神様の真実の愛によって生きる道が示されるのです。正に、真実の愛こそ「それ以上に大きな愛はない。」と言いうるのです。「神は、その独り子をお与えになったほどに、世を愛された。独り子を信じる者が一人も滅びないで、永遠の命を得るためである。」(ヨハネ3:16)ここに神様の真実の愛が示されているのです。どの様な犠牲を払っても道を切り開いて下さるのです。
「神は、独り子を世にお遣わしになりました。その方によって、わたしたちが生きるようになるためです。ここに、神の愛がわたしたちの内に示されました。」(ヨハネT4:9)「愛は忍耐強い。愛は情け深い。ねたまない。愛は自慢せず、高ぶらない。礼を失せず、自分の利益を求めず、いらだたず、恨みを抱かない。不義を喜ばず、真実を喜ぶ。すべてを忍び、すべてを信じ、すべてを望み、すべてに耐える。愛は決して滅びない。」(コリントT13:4−8)神を見失って真実の愛を失い、自己愛の迷いの中で人は迷い、混乱し、対立と憎しみ、争いが絶えない闇の世となっているのです。しかし、神はそのひとり子、イエス・キリストを通して父なる神の愛を示して下さったのです。赦しえない罪を、おろそかに見過ごしにできない罪の裁きの犠牲を払って、神様の御心である真実の愛を示して下さったのです。神様のあるところに真実の「愛」がある。愛は、赦し、和合、融和、平和の根源です。(ロマ15:33)そこに希望があるのです。
愛は見えない。しかし、愛がなければ、見えるものも見えないものも虚無なのです。愛がなければすべてのものは空しいのです。
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人間の命は見えない。しかし、見えない命、人を真実に生かす愛が、命として希望を与えるのです。人の命も終わりが来ます。形あるものは有限です。終わりがあるのです。しかし、神様は変わることなく永遠です。「神は愛です。愛にとどまる人は、神の内にとどまり、神もその人の内にとどまってくださいます。」(Tヨハネ4:16)神様を信じることは神の愛に生きることであり、見える人生は移り変わり、空しいものです。神様を信じない人生は、「死」で終わり、空しく、儚い、希望のない人生です。しかし、人を生かす愛、命こそ生きる光であり、希望であるのです。「だから私たちは落胆しません。たとえ私たちの「外なる人は」は衰え行くとしても、私たちの「内なる人」は日々新たにされていきます。わたしたちは見えるものではなく、見えないものに目を注ぎます。見えるものは過ぎ去りますが、見えないものは永遠に存続するからです。」(Uコリント4:16)
神様の国は永遠です。神様を信じることは神様の命、愛に生きることです。形ある人生が変わっても天国は永遠です。人は死を迎えます。しかし、神様を信じ、永遠の命、神の愛に生きる時、神の国は永遠であるのです。
イエス様は言われます。「わたしは復活であり、命である。わたしを信じる者は、死んでも生きる。」(ヨハネ11:25)人の生涯は死で終わるのでなく、神様の御心である真実の幸せ、永遠の命、神の愛に生きる約束がクリスチャンには備えられているのです。
キリストは復活の約束の事実を示して下さり、形ある地上はやがて真実の神の愛で満たされる約束をして下さっているのです。そこに神様の愛による命のつながり、真実の家族の幸せが与えられているのです。現代の悲劇は家族の喪失、人間性の破壊、神のない世界、地獄の悲劇です。
「主イエスを復活させた神が、イエスと共にわたしたちをも復活させ、あなたがたと一緒に御前に立たせてくださると、わたしたちは知っています。すべてこれらのことは、あなたがたのためであり、多くの人々が豊かに恵みを受け、感謝の念に満ちて神に栄光を帰すようになるためです。」(Uコリント4:14−15)




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