阪神チャペルセンター
  礼拝メッセージ
 
2016年4月10日
「生きておられる主」
ルカ24章28−−35節

 復活され、生きておられる主イエスを褒め称えます。私たちは今日も主の復活の証人として、礼拝に臨めた事を感謝します。主イエスは全世界の罪の贖いとして十字架で死なれ、三日目に甦られました。それが私たちの信仰であり、信仰の告白です。今、肉の目で主を見ることはできませんが、救われた者には証しがあります。「あなたがたは、キリストを見たことがないのに愛し、今見なくても信じており、言葉では言い尽くせないすばらしい喜びに満ちあふれています。それは、あなたがたが信仰の実りとして魂の救いを受けているからです」(Tペトロ1:8、9)と記されているように、この肉眼では主を見てはいませんが、魂の喜びが証しとなっているのです。
主イエスが復活された日の事、二人の弟子がエルサレムからエマオという村へ向かっていました。距離にして11キロくらいなので、それほど遠いわけではありません。人が1時間に歩ける距離は4キロと言われているので、3時間あれば行ける距離でした。彼らは、主の逮捕、十字架の死、婦人の弟子たちが伝えた空の墓の事など、大きな声で話し合いながら旅をしておりました。そこへ主イエスが近づかれて、一緒に歩まれたのですが、二人の弟子は目が遮られて、主であることが分かりませんでした。主が「二人が話しているのは何のことですか」と聞かれたので、「あなたはエルサレムにおられたのに、この数日起こったことを知らなかったのですか」と言いました。「どんなことですか」と聞かれて、「ナザレのイエスの事です。・・・わたしたちは、あの方こそイスラエルを解放してくださると望みをかけていました。・・・もう三日目になります」と答えたのでした。二人の弟子は、主イエスの事を、行いにも言葉にも力のある預言者と、紹介しています。(24:19)預言者とは神に召されて、神の言葉を人々に語る人の事です。主イエスはメシアであって、預言者ではありません。弟子であっても、主イエスがどなたであるのかまだわかっていませんでした。イスラエルをローマ帝国から解放し、この国の王として君臨してくださるお方として理解していたのです。そのように望みをかけていたのに、十字架で死なれてその望みはなくなってしまったと、落胆していました。婦人たちが、主は復活されたと言っても、とうてい信じられなかったのです。主は「物分かりが悪く、心が鈍く預言者たちの言ったすべてを信じられない者たち・・・」と嘆かれ、道々、主の十字架の贖い、三日目の復活について、聖書からこんこんと諭されました。時刻は夕刻であって、エマオに近づいたのですが、主はまだ先に行こうとされているので、二人は一緒にお泊り下さいと、強いてお願いしました。宿で食事の席に一緒に着き、パンを裂かれる様子で、二人の目が開かれ、主であることがわかりました。その時、主の御姿は見えなくなったのです。二人は、すぐに出発してエルサレムに戻ると、11人の弟子たちが、本当に主は復活してペトロに現れたと言い、二人も主イエスに出会い、パンを裂く様子で主が分かったことを報告したのでした。
復活の主に会うまで、二人の弟子たちの望みは消え失せていました。この世の圧政から解放されたいと、強く願っていたのです。主イエスにそういう意味で期待をしていたのです。不思議な力を持つこの方が王様になられたら、安泰だと思ったのでしょう。しかし、主イエスが与えられるのは、魂の安泰であり、唯一の救いです。永遠の命なのです。
クリスチャンはこの世でどのように生きるのでしょうか。神の栄光を表し、神と人に仕える生き方に、真の祝福があります。
まだ主イエスを受け入れていない人で、この世の生活が、自由で楽しい生活であり、何の不足もないとしても、それはいつまで続くのかわかりません。どんなに頭の良い人、完全な人と人から評価されても、やはり罪を持つ弱い人間なのです。人知れず、心の不安を持ち、問題に苦しんでいるかもしれません。救いが必要でない人など一人もいません。
主は、人を罪から解放し、新しい命、永遠の命を与えるためにこの世に来られ、十字架に架かられ、三日目に甦られたのです。
クリスチャンは、さまざまなきっかけで主イエスを信じたと思います。
病気の癒し、問題の解決、心の苦しみからの解放を祈った時、主は適切な解決を与えてくださいました。それらはこの世の事でした。この世の問題が解決しただけであるなら、世にあるさまざまな宗教となんら変わらないことになってしまうのです。主がくださるのは、復活の命なのです。ですから、私たちの信仰も、主イエスが下さった新しい命、永遠の命に生きることであることを、しっかりと心に信じることが信仰のカギになります。
それは、常に主が共にいてくださることを信じることです。主は、エマオの道を共に進んでくださいました。主は共に食卓に着かれたのです。遠くにおられるお方ではなく、私たちと共に常におられる方なのです。    二人の弟子は最初主が近づき、話かけてこられたのに、主イエスだとわかりませんでした。不思議なことです。しかし、私たちも、自分の思いや、関心が強すぎ、それにとらわれていると、肝心の主を見失ってしまうのです。私たちも同じです。自分の問題だけに目を向けていると、主が共におられることを忘れてしまうというような、申し訳ない事になってしまうのではないでしょうか。目が遮られるとは、心が遮られるということに繋がります。
クリスチャンは素晴らしい祝福をいただいている者です。「神は豊かな憐みにより、わたしたちを新たに生まれさせ、死者の中からのイエス・キリストの復活によって、生き生きとした希望を与え、また、あなたがたのために天に蓄えられている、朽ちず、汚れず、しぼまない財産を受け継ぐ者としてくださいました。」(Tペトロ1:3、4)
クリスチャンには、絶望や行き詰まりはありません。日々新しい命に満たされているからです。キリストが蘇られたように、主を信じる者には、同じ命が与えられて生かされているからです。クリスチャンに備えられているものは、朽ちず、汚れず、しぼまない天の財産なのです。
主の御言葉は心を燃やして下さいます。心が燃やされるとは、今まで何の望みもなく、閉ざされていた心が変えられて、なんとも温かくされ、勇気が与えられ、再び信仰の力よって立ち上がることです。
二人の弟子は、主イエスが「道で話しておられるとき、また、聖書を説明してくださったとき、わたしたちの心は燃えていたではないか」と、証ししました。神の言葉、聖書は私たちの心を燃やしてくれるのです。行き詰っている者、絶望している者を、再び永遠の希望に燃やして下さるのです。
二人の弟子は、主にお会いしたことをすぐに伝えたいと思いました。そもそもエマオに出かけて、その村に近づいていたのに、また、暗い道をエルサレムに引き返しました。この行動力も主に心を燃やされたからです。
聖霊に満たされると、与えられた恵みをすぐに伝えたいという思いが強く望むのです。夜の旅は危険なのに、それすらもかまわないような勢いで、また、11キロの道を辿って(たどって)エルサレムに戻りました。戻ってみると、エルサレムの弟子たちも主の復活を語り合っていました。
主にお会いした嬉しさ、永遠の希望は力です。その恵みをすぐに、今伝えたいという思いに駆り立てられるのです。弟子たちは、主がペトロに会われたと話していたのです。ペトロは大祭司の庭で3度も主を否みました。そのペトロに主は会ってくださった。ここに深い主の愛と憐みを覚えるのです。弱さのために失敗した、そのような者に主は真っ先に臨んでくださることを忘れてはいけません。どのようなことも主は許し、受け入れ、癒し、希望に生かして下さる。すばらしい救い主を褒め称えましょう。主イエスは今生きて救いを与えてくださる神です。私たちが急いで主の復活を伝えるなら、主は御業を起こし、救われる魂を与えてくださることを感謝します。
今日は午後墓前祭がありますが、キリストにあって眠っているクリスチャンはキリストの命に復活します。そして私たちの信仰は復活の信仰であることをしっかりと確認しましょう。




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