阪神チャペルセンター
  礼拝メッセージ
 
2016年4月17日
「愛するか」
ヨハネ21章15−19節

 先週は、九州で大地震が起こり、大変な被害を被っています。テレビではリアルタイムでその状況を報道しています。被災した方々の上に主イエスの慰めが豊かにあり、一日も早い復興を祈りたいと思います。
熊本の各教会の被害については、命にかかわるものはなかったと、お聞きしています。
「世も世にある欲も、過ぎ去っていきます。しかし、神の御心を行う人は永遠に生き続けます。」(Tヨハネ2:17)世は過ぎ去っていくと聖書は教えています。この世に望みを置いても、確かなものは何もなく、失われていくということなのです。確かなものは主イエスと、その御言葉であることをしっかりと心にとめて生きましょう。「イエス・キリストは、きのうも今日も、また永遠に変わることのない方です。」(ヘブライ13:8)とある通りです。
さて、復活された主イエスは、ガリラヤ湖畔で弟子たちに現れてくださいました。その弟子たちは、ペトロ、トマス、ナタナエル、ヤコブとヨハネ、そのほかに二人の弟子がいました。7名ほどが漁をしていましたが、何も獲れませんでした。明け方、岸辺に主イエスが立っておられることに気付いたヨハネが、「主だ」と言うと、ペトロは上着を着て湖に飛び込みました。主が船の右側に網を下すようにと言われたので、その通りにすると網を引き揚げられないほどの魚が獲れたのです。陸に上がると、炭火がおこしてあり、魚が乗せてありました。主は、弟子たちに今獲ってきた魚を何匹かもってくるように言われて、パンを与えて朝食を共にしてくださいました。
食事の後で、主は、ペトロに、ヨハネの子、シモンと呼びかけられて、三度同じ意味の質問をなさいました。三度とも、「ヨハネの子シモン」と呼ばれたのです。
かつてペトロは、主に対する献身は、ほかの誰にも引けをとらないと宣言していました。「たとえ、みんながつまずいても、わたしはつまずきません」(マルコ14:29)と言ったのです。しかし、大祭司の庭で主が裁判を受けている時、3度主を知らないと否んでしまいました。主にペトロとよばれるにはふさわしくないような状態であったのです。
ヨハネによる福音書によると、ペトロは、兄弟アンデレによって主イエスに紹介されたようです。イエスは、ペトロを見つめて、「あなたはヨハネの子シモンであるが、ケファ ー (岩)という意味 ― と呼ぶことにすると言われたのです。(ヨハネ1:42)主はペトロをじっと見つめられました。これは凝視するという意味ですが、主はその人の中に可能性を見出されるお方なのです。ガリラヤ湖の一漁師であるペトロの中に、未来の姿を見出しておられたのです。それは、主の使徒として、大きく用いられる姿です。
ペトロはごく普通の人でした。学問も教養もあったわけではありませんでした。特に勇気があったわけでもなく、臆病といわれてもしかたのないような人でもありました。そのような者であっても、主イエスは大きな可能性を見出して下さいました。取り返しのつかないような裏切りをしてしまっても、なお、その召しは変わらなかったのです。
ペトロの心には、主を否んだという罪悪感と引け目があったでしょう。鶏がなく前に3度主を否定したペトロは、大祭司の庭から外に出て激しく泣きました。自分に失望したと思います。そして、他の弟子たちから見下げられても仕方がないと思ったでしょう。人生最大の試練でした。
人が最悪の失敗をしたと思う時、立ち直る方法はないのでしょうか。
まず、自分自身の心の在り方が大切です。ペトロは、他の弟子たちとの交わりを続けました。自暴自棄になって姿を消すような事をしませんでした。自分の弱さを素直に認めて、立ち直りたい、やり直したいと思う時、人は立ち直ることができるのです。見得や恥や外聞を捨てなくてはなりません。主イエスは、ペトロの内に見いだされた将来の姿をとりもどさせたいと思われて、ガリラヤ湖畔に来てくださいました。
主と共にパンと魚で朝食を摂れたことは、主イエスとの交わりの回復であり、親しい間柄であることの証しでした。
食事の後に主はペトロと向き合われました。「ヨハネの子シモン、この人たち以上にわたしを愛しているか。」「はい、主よ、わたしがあなたを愛していることは、あなたがご存知です。」「わたしの子羊を飼いなさい。」という会話がなされました。そして、もう一度、「ヨハネの子シモン、わたしを愛しているか。」「はい、主よ、わたしがあなたを愛していることは、あなたがご存知です。」「わたしの羊の世話をしなさい」。そして、三度目も、「ヨハネの子シモン、わたしを愛しているか」。ペトロはイエスが三度も「わたしを愛しているか」と言われたので悲しくなったのですが、「主よ、あなたは何もかもご存知です。わたしがあなたを愛していることを、あなたはよく知っておられます。」「わたしの羊を飼いなさい。」との会話が続けられたのです。ペトロはかつて、みんながつまずいても、自分は決してつまずきませんと豪語しました。ペトロにそれを思い出させるために、あえて主は「この人たち以上にわたしを愛するか」と聞かれたのです。ペトロは、人との比較で答えませんでした。自分は主を愛しているとお答えしたのです。主はペトロに3度質問なさいました。それは、ペトロは3度主を否定したのですが、3度主を肯定し、愛を宣言することで、主が豊かに赦されていることを確信させて下さったのです。主は、赦されることの少ない者は、愛することも少ないと教えられたことがありました。主がファリサイ派のシモンという人の家に食事に招かれた時、罪赦された一人の女性がイエスの足元に近寄ってきて、涙で主の足を濡らし、髪の毛で拭い、接吻して香油を塗ったという出来事がありました。ファリサイ人は当然、この女性と主を裁きました。この女性が罪深いことが分かるはずなのにと、思ったのです。ところが、主イエスは多く許された者は多く愛するのだと教えられたのです。ファリサイ人シモンは、主を招きながら足を洗う水もくれず、接吻の挨拶もしなかった。頭にオリーブ油も塗ってくれなかった。しかし、この女性は泣きながら足に香油を塗ってくれた。多くの罪が許されたことが分かったからだ。罪赦された嬉しさでこのようにしたのだと、教えられたのです。そして、改めて「あなたの罪は許された」と言われたのです。罪の自覚がなければ許されたうれしさもないのです。ペトロは、主イエスが完全に自分を許して下さった事を確信しました。多く許されたということが分かったのです。主がペトロに教えたかったことは、私の群れを世話するために自分をささげなさいということでした。羊や子羊は弱く迷いやすいものです。そのような弱い者を良く導き、世話をするために、ペトロを召されたのです。聖書は他者とのかかわりを教えています。「めいめい自分のことだけでなく、他人のことにも注意を払いなさい」(フィリピ2:4)それは、隣人愛につながることです。聖書は多くの事を教えていますが、要約すると、「隣人を自分のように愛しなさい」ということなのです。「愛は隣人に悪を行いません。だから、愛は律法を全うするものです」(ローマ13:10)と教えられているのです。ペトロは、晩年皇帝ネロの迫害でローマで殉教しました。そのことを主イエスは予告されましたが、ペトロは「わたしに従いなさい」という主の言葉に従い続けて召しを全うしました。
主イエスは私たちにも、「わたしを愛するか」と聞かれるのです。「はい、主よ、わたしがあなたを愛していることはあなたがご存知です」と、お答えする時、主はわたしたちをご自分のご用に用いられるのです。私は弱い者で、何もできないなどと拒む必要はありません。主の導きに従うなら、私たちを通して神の栄光が表されるのです。
主は私たちをどのように評価されているのでしょうか。
「わたしの目にあなたは値高く、貴く わたしはあなたを愛している・・・恐れるな、わたしはあなたと共にいる」(イザヤ43:4、5と言っておられるのです。
主の十字架の愛を賛美し、感謝しましょう。主は常に共におられて、私たちに使命を与え、ご自分の栄光をお与えになるのです。
日々主イエスに従い、御心に生きる者となりましょう。




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