阪神チャペルセンター
  礼拝メッセージ
 
2016年4月24日
「答えられた信仰」
マタイ15章21−28節

 主イエスによってその信仰を称賛された人たちがいました。ルカ7章に記されている、部下の癒しを願ったローマの百人隊長と、このカナンの女性です。どちらもユダヤ人ではなく、異邦人であったことは注目に値すると考えられます。
 主イエスは、ティルスとシドン地方に行かれました。群衆から離れて、また常に主イエスに敵対するファリサイ派から離れて、十字架の備えをなさるつもりであったようです。そのために、主は静かな時を持ちたかったのです。しかし、そこにも主を必要とする人がいました。一人の女性が主に叫び、懇願したのです。この女性の幼い娘が重病で苦しんでいるので、癒していただきたかったのです。この人は、この地で生まれた異邦人、ギリシャ人でした。不思議なことに、主はこの女性にお答えになりませんでした。弟子たちが、「この女を追い払ってください。叫びながらついてきますので」と言うほどでした。
主イエスは、「わたしはイスラエルの家の失われた羊のところにしか遣わされていない」と、この女性に言われました。しかし、あきらめることなく、主の前にひれ伏し、「主よ、どうかお助けください」とお願いしたのです。そうすると主は、「子供たちのパンを取って子犬にやってはいけない」とお答えになりました。この女性は、「主よ、ごもっともです。しかし、子犬も主人の食卓から落ちるパン屑はいただくのです」と言いました。すると、主イエスは「婦人よ、あなたの信仰は立派だ。あなたの願いどおりになるように」と言われ、娘は癒されたのでした。
主イエスは、この女性の切実な願いになかなかお答えになろうとはしませんでした。それは、短い時間の中ではあっても、この女性に真の信仰を目覚めさようとされたのでした。
子供たちのパンを子犬にやるとは、イスラエルに与えられる恵みを異邦人に与えるわけにはいかないといった意味にとることができます。この時の主イエスの声と、表情は険しいものだったのでしょうか。主は慈しみ深い目と声で語られたので、厳しいともとれるお言葉にも退くことがなかったのです。
当初から、この女性は、主イエスに対する信仰はあったのです。しかし、主とのふれあいの中でその信仰は大きく変わっていきました。
最初に「主よ、ダビデの子」とイエスをお呼びしました。これは、主イエスを奇跡を行う偉大な力を持つ人、地上の権力者と認める称号でした。しかし、主との会話の中で、主は地上の権力者ではなく、神の子であるという信仰に満たされたのでした。この方は人ではなく神の子、メシアであるという信仰です。偉大な人に対する願いから、神に対する祈りに変えられたのです。主イエスに触れるとき、信仰は生きた信仰に変えられるのです。
この女性は最初、主イエスの後を追いました。しかし、やがて主の前にひざまずいたのです。願いが祈りに変えられました。
「主が言われることはごもっともです。しかし、異邦人でも、恵みのおこぼれはいただけるのです」と、主イエスに申し上げたのでした。
主イエスに触れるとき、人の信仰はどのように変えられるのでしょうか。
主イエスが生ける神であることを信じるようになる。ちょうど、ペトロが、「あなたはメシア、生ける神の子です」(マタイ16:16)と告白したように、「あなたこそ神、何事もおできになる方」と告白するのです。
また、主イエスにその信仰を称賛されたカファルナウムの百人隊長は、ローマ人でしたが、重く用いていた部下のために主に癒しをお願いしました。彼は、異邦人でしたので、ユダヤ人の長老たちを主の元に遣わして、助けに来てくださるようにお願いしました。長老たちは、百人隊長は、ユダヤ人を愛し、会堂を建ててくれた人で、主に来ていただくにふさわしい人だと、熱心に願ったのでした。主は出かけてくださったのですが、百人隊長は友達を使いにたてて、「わたしは、あなたを自分の家にお迎えできるような者ではありません。ですから、わたしがお迎えに行くのさえふさわしくないと思っております。ひと言おっしゃってください。そしていやしてください」と言付けました。「権威にはだれも従います。あなたは神であり、絶対的な権威がおありです。できないことはありません」と信じ告白したのです。イエスは「言っておくが、イスラエルの中でさえ、わたしはこれほどの信仰を見たことがない」(ルカ7:9)と言われました。そして、部下は癒されていたのです。
このどちらにも見られるのは、信仰による謙遜さです。カナンの女性は、「子犬」と呼ばれました。家にいる愛玩犬をさす言葉が使われたのですが、犬という意味には変わりがありません。もし、この女性が人間的なプライドの高い人であるなら、我慢できなかったかもしれません。しかし、主との触れ合いの中で、もしかしたら癒していただけるかもしれないというのではなくて、この方こそ唯一の希望であるという信仰が生まれていたのです。それが、謙遜を生み出し、真剣な祈りとなりました。
祈りとは、言葉だけのものではなく、自分の魂を注ぎだして祈るものです。詩編には、「心を注ぎだす」という表現がよく使われています。
「民よ、どのような時にも神に信頼し 御前に心を注ぎ出せ。神はわたしたちの避けどころ」(詩編62:9)とあります。すばらしい御言葉です。神に信頼を置き、その御前に心を注ぎだすとは、神を信じて、自分自身の心をすべて明け渡すということです。命を注ぎだす、心を空っぽにするという意味があります。真剣な祈りなのです。また、6節には、「神にのみ、わたしは希望をおいている」ともあります。神だけが唯一の希望です、ほかにはありませんという信仰の告白です。異邦人であるカナンの女性がこの詩編を知っていたとは思えませんが、この御言葉のような信仰に目覚めたのは確かです。
さらに、この女性が信仰の実として得たものは、不思議な明るさでした。今、娘の病気で困り、問題を抱えているにも関わらず、主イエスとの会話の中で、希望が与えられ、問題を抱えている者特有の心配からくる暗さがありませんでした。悩みや心配事があれば自然に人の心も顔も暗くなります。しかし、心を注ぎだす祈りは、心も、表情も変わるのです。
旧約聖書、サムエル記Tに、サムエルの母、ハンナの出来事が記録されています。長く不妊に悩まされ、心に思い悩み、苦しみを抱えていました。夫は、ハンナを慰めてくれるのですが、ハンナの心は晴れることはありませんでした。シロの神殿で、長い時間激しく泣きながら祈りました。祭司エリは、彼女が酔っているのだと誤解し、家に帰るように促しました。ハンナは、エリに、わたしは心に深い悩み、苦しみがあり、「ただ、主の御前に心からの願いを注ぎだしておりました」と、告げたのです。エリは、「神があなたの願いをかなえてくださいますように」とハンナを祝福しました。ハンナは家に帰りましたが、「彼女の表情はもはや前のようではなかった」(Tサムエル1:18)とあります。
まだ願いがかなってはいないのに、祈りのうちに心が変えられ、希望に生きるようにされたのです。神は、問題の中にあっても神に信頼し、まだ見ていない事実を確信し、未来に微笑む信仰を祝福してくださるのです。やがて待望のサムエルが与えられて、預言者として大きな主の働きがなされました。
「婦人よ、あなたの信仰は立派だ。あなたの願いどおりになるように」と主イエスは宣言され、娘は癒されました。
主の後から願いを叫ぶ者から、主の前に跪き、真の信仰者、礼拝者にこのカナンの女性は変えられました。主は短い時間の中でも、信仰を訓練してくださる素晴らしいお方です。
困難があるのなら、心配があるのなら、主の前に跪き、謙遜になって祈りましょう。心を注ぎだすのです。命を注ぎだすのです。すべてを明け渡して祈る時、主は祈りに答え、全てを豊かに祝福してくださいます。
信仰と祈りによって、私たちの人生は主イエスの恵みに満ち満ちたものとされ、生きておられる主イエスと共に歩める喜びに、満たされ続けることができるのです。クリスチャンの祝福を感謝しましょう。




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