阪神チャペルセンター
  礼拝メッセージ
 
2016年5月1日
勇気を与える祈り
ネヘミヤ2章1−5節

 主イエスは、主を信じる者に、祈る事を教えてくださいました。感謝の祈り、執り成しの祈り、願い、すべてを主の名によって祈り、答えをいただけるのは、クリスチャンの特権です。
さて、旧約聖書に登場する、ネヘミヤは、祈りによって、勇気を与えられ、大きな業を成し遂げることができた人です。その祈りと信仰は、大いに学ぶべきところであると思います。
ネヘミヤは、ペルシャの首都、スサで、アルタクセルクセス王の献酌官をしていたユダヤ人です。この王様の在位はBC465−424ですので、BC445頃の出来事と考えられます。
ネヘミヤの兄弟ハナニが他の人々と共にネヘミヤの元にやって来ました。ネヘミヤはエルサレムと、人々の状況を聞きましたが、悲惨な報告を受けたのです。「エルサレムの城壁は打ち破られ、城門は焼けたままです」(ネヘミヤ1:3)それは、ユダヤ人にとって大きな不幸と恥辱であったのです。
ネヘミヤは、それを聞いて、座り込んで泣き、幾日も嘆き、食を絶ち、天にいます神に祈りをささげました。それは、必死になって祈る、祈り、「心を注ぎだす祈り」でした。
神を崇めながらも、罪を告白し、神の贖いの約束を信じる祈りであったのです。神がお与えになった戒めを守らない罪について、悔い改めました。イスラエルが滅亡し、エルサレムは荒廃し、人々が捕囚として他国に連れて行かれたのは、偶像礼拝の罪のためでした。申命記29章、30章には、イスラエル民族の荒廃の原因は、「彼らの先祖の神、主がエジプトの国から彼らを導き出された時結ばれた契約を、彼らが捨て、他の神々のもとに行って仕え、彼らの知らなかった、分け与えられたこともない神々にひれ伏したからである」(申命記29:24)と、明らかにされています。偶像礼拝の罪でした。しかし、神は回復の約束もされているのです。捕囚の地で、「あなたの神、主のもとに立ち帰り、わたしが今日命じるとおり、あなたの子らと共に、心を尽くし、魂を尽くして御声に従うならば、あなたの神、主が追い散らされたすべての民の中から再び集めてくださる。・・・あなたの神、主を愛して命を得ることができるようにしてくださる」(申命記30:3−6)と、悔い改めて、真の神に立ち帰るなら必ず許し、身元に引き寄せると約束されたのです。
ネヘミヤは、その約束を思い出して祈りました。(ネヘミヤ1:8)。遠い、スサにいてエルサレムのために何もできないと思うのではなく、ネヘミヤは、「キスレウの月」から、「ニサンの月」まで祈り続けました。これは、ユダヤ歴で12月から3月くらいまでの間と思われます。ニサンの月に、ネヘミヤは王の給仕をしていました。王の前でネヘミヤは暗い表情をしないように気を付けていたのですが、王に「暗い表情をしている、どうかしたか、病気ではないか、何か悩みがあるのか」と聞かれました。その時ネヘミヤは、王に、心にかかっているエルサレム荒廃の事を話しました。すると王は、「何を望んでいるか」と、聞いてくれたのです。その時、エレミヤはどうしたでしょうか。「わたしは、天にいます神に祈って」(ネヘミヤ2:4)とあるのです。王様の質問に答えるほんの一瞬の間の祈りでした。神に聞き、そして、王に答えたのです。そして、故郷エルサレムの城塞の修復に遣わしてほしいということと、それに必要な木材、材料の調達、通行証など、必要の一切を伝えることができました。
王は必要すべてを整えてくれたので、ネヘミヤはエルサレムに無事到着し、再建に着手することができました。
祈りは、何を語るのかを心に備えさせ、語る勇気をあたえるものです。心がばらばらに乱れていては、せっかく王が尋ねてくれているのに、何と答えたらよいのかわかりません。一部分しか伝えられなかったら、このようにすべてが迅速に動くこともなかったでしょう。
祈りは、とうていできそうもない困難な工事についても、一致して、「奮い立って」とりかかる勇気をもたらすものです。ネヘミヤがエルサレムに準備万端整えてやってきても、肝心の民たちが動かなければ再建はできないのです。
ネヘミヤがエルサレムの人々に再建計画を話すと、「早速、建築に取りかかろう」と応じ、この良い企てに奮い立ったのです。(ネヘミヤ2:18)神は祈りに答えてくださり、その御手は恵み深くネヘミヤを守られました。
祈りは困難に打ち勝つ勇気と力と知恵を与えてくれます。城壁再建に反対する、サンバラト、トビヤ、ゲシュムといった名が記されています。ネヘミヤはユダの王になろうとしているのだという悪評を流した時も、「神よ、今こそわたしの手を強くしてください」(ネヘミヤ6:9)と祈りました。ネヘミヤは、あざけり、攻撃を繰り返し、邪魔をする者たちの手を押しのけ、武装しながら、それぞれの担当する工事の場所を定めて分担させて、52日間という驚異的な期間で完成させるのです。
城壁が完成し、エズラによってモーセの律法が読まれ、説明された時、
集まった民は、顔を伏せて泣きました。悔い改めの涙でした。その時、ネヘミヤとエズラは、「今日は、あなたたちの神、主にささげられた聖なる日だ。嘆いたり、泣いたりしてはならない・・・主を喜び祝うことこそ、あなたたちの力の源である」と語りました。(ネヘミヤ8:10)
祈りは、神の御心に沿ったビジョンを完成させて、喜びに満ち溢れさせてくださるのです。
誰しも、これは不可能だとか、できないとか、思っていることがあります。しかし、神の御心ならそれは可能なのです。
ネヘミヤはどれだけ日頃の祈りが大切なのかを教えています。真剣な祈りは、勇気を与えます。そして、主はその祈りに答えて、周囲の人々の心に働きかけてくれるのです。王の心に親身な心遣いを与え、エルサレムの民の心に勇気とやる気を起こさせました。敵の攻撃にも耐える知恵と力が与えられました。困難に打ち勝って完成の喜びの時を迎えたのです。
主イエスは、私たちに何を教えておられるでしょうか。「求めなさい。そうすれば、与えられる。探しなさい。そうすれば、見つかる。門をたたきなさい。そうすれば、開かれる。だれでも求める者は受け、探す者は見つけ、門をたたく者には開かれる。あなたがたのだれが、パンを欲しがる自分の子供に、石を与えるだろうか。魚を欲しがるのに、蛇を与えるだろうか。このように、あなたがたは悪い者でありながらも、自分の子供には良い物を与えることを知っている。まして、あなたがたの天の父は、求める者に良い物をくださるにちがいない。」
(マタイ7:7−11)とあるとおりです。
天の父は、良いお父さんです。ローマ書には、「アッバ、父よ」(ローマ15)と呼ぶと記されています。日頃、アッバ、お父さんと呼びながら、祈りの時を大切に持つのです。他のだれも交えない、父なる神と自分の親密な時です。自分の全てを明け渡す祈りです。悔い改めの祈りです。十字架の前に跪く祈りです。祈りは、弱い者を信仰の勇気を持つ者に変えます。
祈りは神の御心を成し遂げる力を与えて、それを喜ぶ者にするのです。
神からのチャレンジが与えられていながら、戸惑い、足踏みするようなことはないでしょうか。祈りの中で、励ましと勇気が与えられ、一歩踏み出し、大きな御業にあずかれるチャンスであることを心に留めましょう。私たち一人一人を主は大きく用いようとされていることに、感謝し、信仰の手をあげましょう。


「あなたがたの中で善い業を始められた方が、キリスト・イエスの日
までに、その業を成し遂げてくださると、わたしは確信しています。」
(フィリピ1:6)



 ページのトップへ
  
2016年の礼拝メッセージ
  
他の年の礼拝メッセージへ


トップページへ