阪神チャペルセンター
  礼拝メッセージ
 
2016年5月8日
母の信仰
Uテモテ1章5節

 今日は母の日です。母の日は、1907年、アメリカのフィラデルフィアに住んでいた、アンナ・ジャービスという婦人が、教会で自分の亡き母を、白いカーネーションを飾って記念したことに始まります。その後、母が健在なら赤いカーネーション、亡くなっていれば白いカーネーションを胸に飾るようになって、アメリカでは、1914年に母の日が制定され、国民の祝日になりました。日本では、1913年、青山学院のアメリカ人宣教師が母の日を伝え、定着していくきっかけとなりました。1937年に、森永製菓が母の日を広めて全国に広まったと言われています。戦後1949年頃から5月第2日曜日を母の日とするようになったのです。日頃のお母さんの苦労を察して、いたわり、感謝を表す日とされています。
聖書の中にもさまざまな母親が登場しています。イエスの母マリアは、御使いガブリエルにメシアの母となることを告知され、「わたしは主のはしためです。お言葉どおり、この身に成りますように」(ルカ1:38)と答えました。やがてマリアは、主イエスが十字架の贖いを成し遂げるという御業を目の当たりにしました。
サムエルの母ハンナは、不妊を嘆き、心を注ぎだして祈りました。ハンナは、主に男の子が与えられるなら、その子を一生ささげますと祈りました。与えられたサムエルを、乳離れした時に、約束通り祭司エリに委ねました。ハンナは毎年小さな上着をサムエルのために縫い、それを届けたのです。サムエルは偉大な預言者として豊かに用いられました。
今日、お読みした聖書の箇所に登場する女性は、テモテという弟子の母と、祖母に当たる女性です。
パウロの第二回伝道旅行の時、リストラという町にテモテがいました。
彼は、ユダヤ婦人と、ギリシャ人の父親の間に生まれた子で、評判の良い人であったと記されています。(使徒16:1、2)パウロは、このテモテを弟子とし、伝道旅行に同行しました。
テモテはその後、エフェソで伝道牧会に従事したと考えられています。
パウロは、ローマで投獄されましたが、テモテへの第二の手紙は、パウロの遺書ともいえる手紙で、処刑される直前の手紙と思われています。
若いテモテを励まし、信仰と正しい良心をもって雄々しく戦うようにと励ましを与えています。
さて、今日は、信仰の継承について考えてみたいと思います。テモテの純粋な信仰は、その祖母ロイス、母エウニケから伝えられたとあります。パウロは、「その信仰は、まずあなたの祖母ロイスと、母エウニケに宿りましたが、それがあなたにも宿っていると、わたしは確信しています」(Uテモテ1:5)と記しました。信仰とは、宿るものと表現しています。テモテの持っていた信仰は、純粋な信仰でした。これは、偽りのない信仰という意味になります。裏表のない信仰です。誠実な信仰です。ある時には神を信じ従い、ある時には従うことができないというのは、純粋な信仰ではありません。このパウロやテモテの時代は、迫害が続いていた時代です。また、偽教師が教会の中に入り込み、福音とは違う教えを伝えて、教会を惑わすといったこともたびたびだったのです。     パウロは迫害の中、この手紙をローマの獄中で書き送り、「世を去る時が近づきました。・・・今や、義の栄冠を受けるばかりです」(Uテモテ4:6−8)と告白しています。また、「異なる教えを説き、わたしたちの主イエス・キリストの健全な言葉にも、信心に基づく教えにも従わない者がいれば、その者は高慢で、何も分からず、議論や口論に病みつきになっています」(Tテモテ6:3,4)とあります。
そのような中、テモテは祖母、母に宿った信仰を受け継ぎ、彼の中にも純粋な信仰が宿っているとパウロは書き送りました。宿るという言葉は、コロサイ3章16節の「キリストの言葉があなたがたの内に豊かに宿るようにしなさい」と使われている言葉と同じ意味の言葉です。主を信じる者の心に定着して動かない御言葉そして、信仰です。
私たちは、幸いにも主イエスを個人的な救い主として受け入れて、救われています。すべての罪を許していただきました。永遠の命を持つ者とされています。これは、決して失ってはいけないものです。主は、「必要なことはただ一つだけである。」(ルカ10:42)と言われました。
主イエスをおもてなししたかったマルタは、心せわしく、働いていました。その妹マリアは、主の足元に座って、御言葉に聞き入っていました。マルタはあまりの忙しさに心が乱れて、主に苦情を言ったのです。
その時に主が言われたのは、「必要なことはただ一つ。まず御言葉を聞いて、信仰をしっかりと宿し、それから働きなさい」ということでした。
救われている者は、純粋な信仰を宿らせつづけるのです。そして、それは自分だけのものではありません。その信仰によって一人が救われて、また、一人が救われるという、救いの連鎖が大切なのです。救いはあってもなくても、どうでも良いものではありません。なくてならぬものなのです。
 主イエスは、十字架に架かって死んでくださいました。そして三日目に甦られたのです。その十字架の贖いで私たちは生きる者とされました。
信仰によって生きる者とされたのです。
私たちは、母の存在に感謝したいと思います。母親がいなければ、また、父親がいなければ、私たちはこの世に生まれませんでした。私たちは年と共に母に、また父に感謝の念が深くなるのではないでしょうか。すでに天に召された両親に対しても懐かしさと、感謝があふれてくるのではないかと思います。
親は、子供に幸福を願います。子である者は、幸福に生きることが親に対する愛情の応答です。いつまでも心配をかけるのは御心ではありません。
厳しいこの世の中で生きていく上で本当に必要なものは何でしょうか。それは、物ではありません。心なのです。どんなことがあっても負けない強い健全な心、周囲の人たちに心を寄せるやさしい、強い心、つねに希望をもって前進する心、挫折をチャンスと思える心などではないでしょうか。それは一体どのようにして持つことができるのでしょうか。常日頃の家庭での教育にもよるでしょう。しかし、それは主イエス・キリストを心に宿すことから始まるのです。テモテは若く、気弱なところがあったのかもしれません。パウロは、「神は、おくびょうの霊ではなく、力と愛と思慮分別の霊をわたしたちにくださったのです」(Uテモテ1:7)と記しました。この御言葉にこそ、この世を旅する者に必要なすべてが教えられています。生活の中で行き詰った時、困った時、悩む時、神が私に与えておられるのは、このような霊だと思い起こさなければなりません。主イエスはこのような力強い御霊を宿らせてくださいました。子である者は、主イエスにあって、信仰によって勝利することが父母に対する感謝と愛の表れだといえます。
父母である者は、子に良い物を与えたいと願うなら、純粋な信仰を宿し続け、生活の中で証し続けることであると思います。
御言葉を読み続け、祈り続ける父母の姿を見て育つ子は幸せです。
祈りによって勝利する父母を見て育つ子は幸いです。
そして、子である者は、その両親に主イエスに対する信仰によって力強く歩む姿勢を見せるなら、すばらしい証しとなります。
生きておられる主イエスをあらわすことができるからです。
この礼拝を通して、もう一度家族のために祈り、救いのために祈りましょう。永遠の命を喜び感謝し、主イエスの栄光をたたえる家族として、さらに主イエスを褒め称えましょう。

「あなたにゆだねられている良いものを、わたしの内に住まわれる聖霊によって守りなさい」(Uテモテ1:14)


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