阪神チャペルセンター
  礼拝メッセージ
 
2016年5月15日
ペンテコステの出来事
使徒2章1−4節

 今日は、教会の暦ではペンテコステの日です。ペンテコステとは、ギリシャ語で50番目を意味し、イースターから50日目に聖霊が降ったことを記念する日であり、教会が誕生した記念日でもあります。
主イエスは、昇天される前に、弟子たちに「エルサレムを離れず、前にわたしから聞いた、父の約束されたものを待ちなさい。ヨハネは水で
洗礼(バプテスマ)を授けたが、あなたがたは間もなく聖霊による洗礼(バプテスマ)を授けられるからである。」(使徒1:4)と命じられました。また、「あなたがたの上に聖霊が降ると、あなたがたは力を受ける。そして、エルサレムばかりでなく、ユダヤとサマリアの全土で、また、地の果てに至るまで、わたしの証人となる」(使徒1:8)と言われました。主イエスがオリブ山で昇天された後、弟子たちはエルサレムで心を合わせて熱心に祈りました。そこには、母マリアや、主の兄弟もいたと記録されています。(使徒1:14)。やがて五旬祭(五旬節)になり、人々が一つになって祈っている時、約束の聖霊が一人一人の上に降りました。それは、使徒2章にあるように、突然、激しい風が吹いてくるような音が天から聞こえ、彼らが座っていた家中に響いたのです。炎のような舌が分かれ分かれに現れ、一人一人の上にとどまりました。すると、一同は聖霊に満たされて、霊が語らせるままに他の国々の言葉で話しだしました。
五旬祭でしたので、エルサレムには他国に住むユダヤ人たちが帰国していました。この出来事に大勢の人が集まってきて、弟子たちが自分たちの国の言葉で話しているのを不思議に思ったのでした。弟子たちは、彼らが住んでいる国々の言葉で神を賛美し、褒め称えていたのです。しかし、中には、弟子たちは新しい酒に酔っていると言って嘲る者もいました。
ペトロは、他の11人と共に立ち上がって、人々に語り始めました。自分たちは、酒に酔っているのではなく、旧約聖書のヨエル書の預言が成就したことを証しし始めました。主イエスこそが約束のメシアであること、主の十字架の死と復活とを力強く証ししました。
「神はこのイエスを復活させられたのです。わたしたちは皆、そのことの証人です。それで、イエスは神の右に上げられ、約束された聖霊を御父から受けて注いでくださいました。あなたがたは、今このことを見聞きしているのです。」(使徒2:32−34)
ペトロはさらに悔い改めを勧め、この日、主イエスを信じた者は3千人ほどになり、「使徒の教え、相互の交わり、パンを裂くこと、祈ることに熱心であった。」(使徒2:42)とあるように、教会が建て上げられていきました。エクレシア、主を信じる者の群れができて、活動がなされるようになったのです。ここから、宣教が始まっていきました。
この後、迫害が起こり、使徒以外の弟子たちはエルサレムから散らされていくのですが、彼らは宣教しながら地方を巡って行ったのです。
主イエスは、「聖霊を受けなさい」(ヨハネ20:23)と、繰り返し弟子たちに語られました。聖霊は、父、子、御霊の三位一体の神です。
主は十字架の前に、聖霊なる神が父から遣わされて弟子たちと共に永遠に共にいてくださることを教えられました。「父は、別の弁護者を遣わして、永遠にあなたがたと一緒にいるようにしてくださる。この方は、真理の霊である」(ヨハネ14:16:17)聖霊は、罪に対して目を開かせ、真理を示し、主の教えを悟らせる方なのです。
そして、この方は「あなたがたと共におり、これからもあなたがたの内にいる」(ヨハネ14:17)と主イエスは教えておられます。
聖霊は信じる者に心に住んでくださるのです。聖霊の「内住」と言い表します。クリスチャンである私たちの内には聖霊が住んでおられるのです。信仰は、「宿す」ものとありますが、まさに聖霊は信じる者のうちに宿っておられる方なのです。
それでは、使徒2章に記されている聖霊の現象とは何なのでしょうか。
主イエスを信じる者の内には聖霊がおられるのです。それは、祈り待ち望む者の魂に、聖霊が徹底的に浸透するという体験と言い表すことができます。水のバプテスマは水に全身を浸します。聖霊のバプテスマは、聖霊に浸されるのです。この体験は、誰もが持つことのできる体験です。
臆する霊ではなく、力と愛と思慮分別の霊に満ち溢れ、浸されるのです。
ペンテコステの日から弟子たちは変わりました。十字架の意味がはっきりと分かりました。主イエスの十字架の死と復活を信じて、その意味を悟ったのです。主イエスが、「聖霊はわたしが話したことをことごとく思い起こさせてくださる」(ヨハネ14:26)と言われたようになりました。
「美しい門」で、生まれながらに足の不自由な人を、主イエスの名によって癒したペトロとヨハネが逮捕されて議会で尋問された時、ペトロは、「聖霊に満たされて」(使徒4:8)十字架に架けられた主イエスが唯一の救い主であることを証言したのです。かつてのペトロとは別人のようでした。「ほかのだれによっても、救いは得られません。わたしたちが救われるべき名は、天下にこの名のほか、人間には与えられていないのです。」(使徒4:12)と、堂々と証言しました。
ペンテコステの日、3千人が主イエスを信じて洗礼(バプテスマ)を受け、教会が形成されました。主を信じる者の群れである、エクレシアが誕生したのです。彼らは、教えを喜び、交わりを喜び、聖餐を喜び、祈りを喜び、常に熱心に祈る群れとなりました。生けるキリストを中心とした教会が誕生したのです。迫害も始まりましたが、決して屈することなく福音が伝えられて行き、弟子の数は増え続けていきました。
聖霊が臨まれ注がれると、不思議な御業が起こされます。聖霊は聖なる御霊ですから、敬虔な信仰に導かれます。神に対する姿勢が整えられるのです。キリストの十字架の贖いによって罪赦された者は、罪の中に戻ることはしません。神の御心は常に聖いものですから、その聖さを追い求める生活に変えられるのです。罪から離れて、神の喜ばれる生活と生涯となります。そして、自分は聖霊の宿る神の宮であり、キリストの体である教会の肢体であるという信仰に導かれます。神が教会(エクレシア)に与えられた使命を果たしていくことが、聖霊によって喜びになるのです。
教会の働きは、御霊によって一つになり、神を礼拝することです。そして、礼拝を献げるために必要ないろいろな奉仕も礼拝なのです。
私たちが礼拝をささげることを神は何よりも喜んでくださるのです。
クリスチャンの生活と信仰の中心は礼拝であることを軽んじてはなりません。
教会の大切な働きは、聖霊によって宣教することです。救いは神の御業ですが、伝えることは人の働きなのです。ですから主に委ねられている宣教の業を行い、人が救われることは御心であって、必ず祝福されるのです。
また、聖霊に満たされて、主の御体を建て上げていくために、それぞれが用いられていきます。聖霊の満たしに預かることにより、力が与えられるのです。
使徒言行録18章に、アポロという弟子が登場します。彼はアレクサンドリア生まれで、聖書に詳しい雄弁家であると紹介されています。エフェソに来て、福音を正しく熱心に伝え、聖書の教えにも間違いはありませんでした。アポロが語るのを聞いた、アクラとプリスキラは、彼を招き、もっと正確に神の道を説明したのです。彼はヨハネの洗礼(バプテスマ)しか知らなかったからです。聖霊について教えられた彼はさらに用いられるようになったのです。
主イエスは「渇いている人はだれでも、わたしのところに来て飲みなさい。私を信じる者は、聖書に書いてあるとおり、その人の内から生きた水が川となって流れ出るようになる。」(ヨハネ7:37)と大声で言われました。これは聖霊の事を言われたのです。
聖霊の満たしを求めましょう。異言をともなう聖霊のバプテスマを求めるのに躊躇はいりません。求める者は満たされるのです。そして、神の宮として豊かに用いられ続けることを感謝しましょう。


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