阪神チャペルセンター
  礼拝メッセージ
 
2016年5月22日
「平和と真実の家庭の幸せ」
エフェソ2章14−22節

 「安らかに眠って下さい 過ちは繰返しませぬから」
この碑文の趣旨は、原子爆弾の犠牲者は、単に一国一民族の犠牲者ではなく、人類全体の平和の礎(いしずえ)となって祀られており、その原爆の犠牲者に対して反核の平和を誓うのは、全世界の人々でなくてはならないというものです。
 広島市は、この碑文の趣旨を正確に伝えるため、昭和58年(1983年)に慰霊碑の説明板(日・英語)を設置しました。その後、平成20年(2008年)にG8下院議長会議の広島開催を機に、多言語(フランス語、ドイツ語、ロシア語、イタリア語、中国語)での新たな説明板を設置しました。その全文は次のとおりです。「この碑は昭和20年(1945年)8月6日世界最初の原子爆弾によって壊滅した広島市を平和都市として再建することを念願して設立したものである」
 碑文は、すべての人々が原爆犠牲者の冥福を祈り、戦争という過ちを再び繰り返さないことを誓う言葉である。過去の悲しみに耐え、憎しみを乗り越えて全人類の共存と繁栄を願い、真の世界平和の実現を祈念するヒロシマの心がここに刻まれています。被爆死者広島14万人、長崎7万人と言われ、現在までの総計は70〜80万人を数えるともいわれている。
 中央の石室には、原爆死没者名簿が納められており、この碑はまた原爆死没者慰霊碑とも呼ばれています。
2009年4月5日、チェコ共和国の首都プラハのフラチャニ広場で、アメリカ合衆国大統領バラク・オバマが核廃絶へ具体的な目標を示した演説をしました。これはプラハ演説と呼ばれています。「核兵器の無い世界の実現」を宣言しました。時あたかもノーベル世界平和賞推薦時期であり、推奨委員会は直ちに平和賞をオバマ大統領に贈呈したのでした。現実には核兵器を保有し、人類史初めて悲惨な核兵器を投下した国であったのです。戦争の悲惨がその被害の大きさで計られるものでもありません。人類の戦争の歴史には、武器を持たない人々を皆殺しにすることは人類文明史を見る限り、例外はあるにせよ避けられてきたのです。しかし、第二次世界大戦、広島、続いて長崎で一瞬にして赤子と言わず、非戦闘員である一般市民の二十数万人が殺戮(さつりく)されるという惨事が起こったのです。戦争での核兵器使用の悲惨に直面し、戦争の悲劇と責任を鑑み、国連で核兵器の所持を自主的に調整するように努力がおこなわれてきたのです。
去る5月11日読売新聞朝刊に、「オバマ氏27日広島訪問」と共に、「(日本)首相同行」と報道されたのです。核を使わなくても、戦争では、通常兵器の無差別攻撃もあり、ドイツのドレスデンでは、一晩に14万人が殺害され、市民を巻き添えにしたのでした。又、東京、3月10日の大空襲では、一晩で10万人の一般市民死傷者が出たと言われているのです。 
人の命の尊厳は、数で決めるものではありません。正当な戦争はあるのでしょうか。「戦争」は「争い」であり、人間の許しえない駆け引き、妥協できない利害の力の支配であるのです。
私の大学時代のゼミの教授であった印具徹先生は、戦中、広島医大の倫理学の先生でした。ルターの教えを聖書から研究した論文で追放になり、その後、広島女学院で教えられ、悲劇の原爆投下を生徒と共に経験されるのです。太田川に逃げた生徒を救うため、腕を差し伸べると手の皮膚がめくれるのでした。泣き叫ぶ女学生を抱きしめながら、「戦争は“どんな理由”があっても,してはならない。」と確信したというのです。先生は104歳まで関西にあって、被爆者相互援助協会会長として「平和」を訴え続けられました。 戦争は何故起こるのか。人が共に生きる道を求め、そこに譲り合い、相互理解、共に生きるための可能性を求めて意見の合意をし、求めることが大切です。
聖書には、「実に、キリストはわたしたちの平和であります。二つのものを一つにし、御自分の肉において敵意という隔ての壁を取り壊し、規則と戒律ずくめの律法を廃棄されました。こうしてキリストは、双方を御自分において一人の新しい人に造り上げて平和を実現し、十字架を通して、両者を一つの体として神と和解させ、十字架によって敵意を滅ぼされました。キリストはおいでになり、遠く離れているあなたがたにも、また、近くにいる人々にも、平和の福音を告げ知らせられました。 それで、このキリストによってわたしたち両方の者が一つの霊に結ばれて、御父に近づくことができるのです。従って、あなたがたはもはや、外国人でも寄留者でもなく、聖なる民に属する者、神の家族であり、使徒や預言者という土台の上に建てられています。そのかなめ石はキリスト・イエス御自身であり、キリストにおいて、この建物全体は組み合わされて成長し、主における聖なる神殿となります。 キリストにおいて、あなたがたも共に建てられ、霊の働きによって神の住まいとなるのです。」(エフェソ2:14-22)と約束されています。
本来、世界は神様の創造によって構成されているのです。そして創造の結果を見て、「神はお造りになったすべてのものを御覧になった。見よ、それは極めて良かった。夕べがあり、朝があった。」(創1:31)神が、満足され完成された創造であった。言い換えれば、全てのものは神様の御心と調和していたのです。造られた自然と人、人と人とは、調和していたのです。言い換えれば、調和こそ平和であるのです。
 神様は「ご自分にかたどって人を創造された。」(創世記1:27)
人は、神様の本質である「愛と義」をもって形のありかたを示されたのです。
神様を見失うことは、神様の本質である「愛」を見失って生きることになるのです。日本語では「愛」という言葉は表現しにくいのです。「愛」には自分を生かし支え、満足させる「自己愛」の愛が生きる本能としてあります。「自分を愛する」、自分の欲望、自分の願望、自己欲などがあります。人間は自己愛だけで生きるものではありません。「人は共に生きる」ところに自己犠牲を伴って生きる可能性が開かれて行きます。「愛」は、愛している人と犠牲を分かち合って生きるのです。それが「家族の愛」です。「神様の愛」によって生きる時、「友のために自分の命を捨てること、これ以上に大きな愛はない。」(ヨハネ15:13)と言えます。これが家族の愛です。
「 愛する者たち、互いに愛し合いましょう。愛は神から出るもので、愛する者は皆、神から生まれ、神を知っているからです。愛することのない者は神を知りません。神は愛だからです。神は、独り子を世にお遣わしになりました。その方によって、わたしたちが生きるようになるためです。ここに、神の愛がわたしたちの内に示されました。わたしたちが神を愛したのではなく、神がわたしたちを愛して、わたしたちの罪を償ういけにえとして、御子をお遣わしになりました。ここに愛があります。愛する者たち、神がこのようにわたしたちを愛されたのですから、わたしたちも互いに愛し合うべきです。いまだかつて神を見た者はいません。わたしたちが互いに愛し合うならば、神はわたしたちの内にとどまってくださり、神の愛がわたしたちの内で全うされているのです。」(Tヨハネ4:7−12)
真実の平和の基礎は両親を中心に家庭から神の存在の実現が証されなければなりません。


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