阪神チャペルセンター
  礼拝メッセージ
 
2016年5月29日
神を愛する人
Tヨハネ4章16−21節

 日々主の恵みの中に歩める事を感謝します。クリスチャンに与えられている祝福はたくさんあります。真の神の祈ることができる、御言葉によって生きることができる、罪赦され、永遠の命を生きることができる、現実の厳しい生活の中でも、常に守られ、感謝の生活ができるなどです。数えきれない恵みの中にあることを感謝します。
 私たちは日々恵みに満たされて、成長していく責任があります。霊的な成長です。パウロは、コリントの教会にあてて手紙を記しましたが、「キリストとの関係では乳飲み子」と呼びました。(Tコリント3:1)それは、「肉の人」でもあると書かれています。なぜなら、ねたみや争いが絶えない(Tコリント3:3)からだとあります。ようするに、「肉の人」から「霊の人」へと成長することが必要ということなのです。
 人と人との関係で考えると、乳幼児は、両親や他の人々に100パーセント依存して、はじめて生きていくことができます。逆に言うなら、愛と助けがなければ生きていくことはできないのです。そうして少しずつ体も心も成長していき、やがて自立するようになる。そうなるまでには気の遠くなるような愛と支えが注がれたのです。
人は、自立していき、そして、かつて自分を育んでくれた存在を支えるようになり、さらにもっと広く助けが必要なところに手を差し伸べるようになっていく。これが人の成長であると考えることができるでしょう。
神との関係で考えると、イエス・キリストの愛を通して神の愛を知り、その愛を受け続けているのですが、やがて私たちが全身全霊をもって神を愛するようになる。それが霊的な成長のバロメーターといえるのです。     
今日の聖書の箇所からは、成長のためには恐れを取り除かれた完全な愛をもつことが必要であると教えられます。「愛には恐れがない。完全な愛は恐れを締め出します。」(Tヨハネ4:18)とあるのです。
この場合の恐れとは、「懲罰」に対する恐れです。なぜ、罰を恐れるのでしょうか。それは、人間の心には罪があるからです。この恐れは、人がどんなに努力しても取り除くことができません。
真の神がおられるのに受け入れようとしない、人を裁き、人を騙(だま)し、嘲(あざけ)るような心を持つのが人間です。また、自分中心な高慢な心を持つ者なのです。
そのような心が表にでなければ何も差支えがないと考える人もいますが、主イエスは、「しかしわたしは言っておく。兄弟に腹を立てる者はだれでも裁きを受ける。兄弟に『ばか』と言う者は、火の地獄に投げ込まれる。」(マタイ5:22)と、厳しく教えておられます。
 主が教えておられるのは、心の思いを神はご覧になっておられる。怒ることは悪い。軽蔑の言葉を語る者は悪い。不注意な悪意のある話をして人の信用を傷つけることは更に悪い。殺人を犯さなくても、心では人を殺していることになると教えられたのです。そのような人の罪と、意識を拭い去ることができるのは、イエス・キリストの十字架の贖いによる以外はありません。「神は、独り子を世にお遣わしになりました。ここに愛があります。その方によって、わたしたちが生きるようになるためです。ここに、神の愛がわたしたちの内に示されました。わたしたちが神を愛したのではなく、神がわたしたちを愛して、わたしたちの罪を償ういけにえとして、御子をお遣わしになりました。ここに愛があります。」(Tヨハネ4:7−10)とある通りです。
御子イエス・キリストの尊い贖いによって示された神の愛を知り、受け入れて、私たちはその愛に答えて神を愛するように導かれています。「わたしは神がわたしを愛しておられることを知っている」「わたしの罪はイエス・キリストにあって完全に赦されている」と信じ、そして、神を愛する者となったのです。
しかし、神は見えないお方です。見えないお方をどのようにして愛す
ればよいのでしょうか。聖書は何と教えているでしょうか。「神を愛する人は、兄弟をも愛すべきです。これが、神から受けた掟です。」とあります。(Tヨハネ4:21)。
掟と訳されている言葉には、義務、命令、指示という意味があります。神の命令であり、指示であり、これが私たちの神に対する義務でもあるのです。神を愛するということは、その命令、御言葉を守ることです。神を愛するなら、その御言葉を守るということです。信仰には裏表があってはなりません。誠実な信仰を保つべきです。神の戒めを守って生きることが、神の前に偽りのない生き方であり、神を愛する生き方なのです。
 兄弟を愛するとは、その心にあることを覚え、それに仕えるということではないでしょうか。
使徒言行録9章に、ドルカス、またはタビタという婦人についての記録があります。彼女の名はかもしかという意味だとあります。この婦人の弟子は、ヤッファに住んでいたのですが、たくさんの善い行いや施しをしていたとあります。このタビタが病気で召されました。ペトロが、ヤッファに近いリダという町にいる事を聞いた弟子たちは、急いでペトロを迎えに行きました。ペトロがヤッファに着くと、やもめたちはタビタが作ってくれた数々の洋服を泣きながら見せました。タビタは、やもめたちが何を必要としているかよく知っていて、その必要のために自分自身を使った人であったのです。自分の損得ではなく、他の人々のために自分自身を用いました。兄弟姉妹を愛し、実践するという生き方の人であったのです。ペトロを通して奇跡がなされ、タビタは復活し、ヤッファ中にこのことが知れ渡りました。そして、多くの人が主イエス・キリストを信じました。
ペトロはタビタの出来事でヤッファに迎え入れられましたが、この後カイサリアの100人隊長コルネリウスの元に導かれて、異邦人の救いと、異邦人に聖霊が注がれるという出来事に繋がっていきます。
主イエスの十字架の贖いは誰のためであったのでしょうか。全世界の罪のため、そして、わたしたち一人ひとりのためでした。この十字架の犠牲の動機は、ただわたしたち一人ひとりに対する神の愛に他なりません。
神は私たちを愛しておられます。そして、常に共にいてくださいます。共に喜び、共に憂い、共に泣いて下さり、共に重荷を負って下さるのです。この神の愛に心から答えることのできるクリスチャンであるなら、本当に成熟した信仰であると考えることができるのです。幼い時は多くの人々の愛と支えによって生きたのです。しかし、成人したなら、神と人に仕え、与えられるより与える方が幸いであるという生き方に徹したいのです。これが主イエスの生き方であり、主を信じ贖われ、愛されている者の生き方なのです。
罪ある者は神の御顔を避けるのです。アダムとエバがエデンの園で罪を犯した時、神の臨在を避けて繁みに隠れてしまったのと同様です。本来うれしいはずの神の臨在を避けようとしなければならなかった。恐れたからです。この時から神との交わりが絶たれてしまいました。罪ある者には恐れが付きまといます。しかし、罪赦された者には恐れはありません。罪からも、恐れからもイエス・キリストの十字架によって解放されたからです。
私たちは、完全に罪を許していただきました。この神の愛に応答し、恐れることなくはばかることなく神に近づき、神を愛し、そして、兄弟を愛するなら、神はわたしたちの内にいてくださり、神の愛がわたしたちに全うされるのです。神はそのように語っておられるのです。


「あなたがたに新しい掟を与える。互いに愛し合いなさい。わたしがあなたがたを愛したように、あなたがたも互いに愛し合いなさい。互いに愛し合うならば、それによってあなたがたがわたしの弟子であることを、皆が知るようになる」(ヨハネ13:34、35)


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