阪神チャペルセンター
  礼拝メッセージ
 
2016年6月5日
恐れることはない
マタイ14章22−33

 六月の第一週の日曜日、このようにして礼拝できることを感謝します。19日は、いよいよゴスペルコンサートです。祈り、主の御業が現され、救いがあるようにさらに祈りましょう。GGCと、ゲストメッセンジャーの日吉成人先生のためにも祈りましょう。
私たちが先に主イエスを信じ、救われたわけは、「あなたがたを暗闇の中から驚くべき光の中へと招き入れてくださった方の力ある業を、あなたがたが広く伝えるためなのです」(Tペトロ2:9)とあるように、真の救い主イエス・キリストというお方を広く伝えるためなのです。そのために用いられることは本当に感謝です。また、ゴスペルはじめ、ジョイフルなど、さまざまなプログラムで伝道できることは感謝なことです。
さて、人は心に恐れを持ちやすいものです。恐怖を心に抱きやすい存在といえるでしょう。いつも何かに怯え、恐れているのです。
人の心の中にある本能的な恐怖とは、死に対する恐れではないでしょうか。人が生まれると、大きな喜びが沸き上がります。しかし、その時から、人はこの世での終焉に向かって歩み始めているのです。
詩編90編には、「人生の年月は70年程のものです。健やかな人が80年を数えても得るところは労苦と災いにすぎません。瞬(またた)く間に時は過ぎ、わたしたちは飛び去ります」(詩編90:10)とあります。この地上にあるのは瞬く間だから、日々自分の日を数えて、神の前に御心に沿って生きていくべきだと教えているのです。
さて、今日はペトロが湖の上を歩いたという聖書の記事を読みたいと思います。これは、主イエスが男の人だけで五千人に5つのパンと2ひきの魚で満腹させて下さったという出来事の直後にあったことでした。
主イエスは、弟子たちを強いて舟に乗りこませ、向こう岸に先に行かせました。そして、ご自分は祈るために一人で山へ向かわれました。主イエスは五千人を養われるという不思議な奇跡を行われました。そこで人々は、主イエスを王にするために連れて行こうとしたとあります。
(ヨハネ6:15)
主イエスは神の国を教えられ、命のパンであるご自身と、真の救いについて教えておられるのに、人々の関心はこの世の事であり、主イエスが王になれば国は平定され、自分たちは解放されるだろうということだったのです。これが実行されると大変な混乱が起こってしまいます。
そのような事を避けるために、弟子たちを先に向こう岸に向かわせ、ご自分は祈るため、一人で山に行かれたのです。夕方になってもまだ山におられました。
弟子たちは舟で向こう岸に向かっていたのですが、逆風のために進むことができませんでした。ところが、夜明け頃主イエスが歩いて弟子たちのところに来られました。主は湖の上を歩いてこられたのですが、弟子たちは「幽霊だ」と言って、恐怖のあまり叫び声をあげました。
彼らは漁師をしていたような屈強の男性だったはずですが、本当に恐ろしかったのでしょう。その時、主イエスはただちに彼らに声をかけてくださいました。「安心しなさい。わたしだ。恐れることはない」
(マタイ14:27)
ペトロは近づいてきた人が主イエスだと知ると、「わたしに命令して、水の上を歩いてそちらに行かせて下さい」と願いました。主イエスは「来なさい」と言われました。ペトロという人は、一口で言うと衝動的な人で、後先を考えなかったようです。今、湖の上を歩きたいと思ったら、他の事は考えずにそのように行動したのです。ペトロは主の方へ歩き始めたのですが、強い風が吹いていました。波も高かったのです。風と波を恐れて怖くなり、沈みかけてしまいました。「主よ、助けてください。」と叫ぶと、主イエスはすぐに手を伸ばして掴まえてくださったのです。
ペトロが波に沈んだのは、疑ったからだとあります。主は、「信仰の薄い者よ、なぜ疑ったのか」(マタイ14:31)と、言われました。
そして、二人が舟に乗り込むと、風は静まりました。
主イエスがこの出来事を通して、教えてくださるのは、弟子たちが恐れ、進めないような時、主イエスは助けてくださったということです。
人生には逆風がつきものです。さまざまな出来事に困惑し、力を失い、失望し、それが恐怖に変わることがたくさんあります。失敗が死につながるようなことがあるのです。
自分の身が荒れ狂う湖に落ち込んだら、そこには死の恐怖しかないでしょう。ペトロは死の恐怖に叫んだのです。何も起こらなかったでしょうか。
主イエスは手を伸ばして、沈みかけ、滅びかけているペトロを救ってくださいました。これは遠い昔ペトロに起こっただけではなくて、
今生きている私たちが悩み苦しみ、絶望するような時、体験できることなのです。主イエスは、「恐れるな、勇気をだしなさい」と御声をかけて下さり、その力強い御手で引き揚げてくださる方です。
ペトロはその後、十字架の直前大祭司の庭で主イエスを3度も拒む(いな)ような大失敗をしてしまいますが、失敗しても主の御手を放すようなことはありませんでした。ペトロは失敗しても主イエスから離れず、それを糧としてさらに主イエスに近づいていった人でした。 
 ペトロだけではなく、人は皆弱く、罪深いものでしかありません。主が愛のお方ではなかったら、とうに見捨てられても仕方のないような者なのです。
「私たちが滅びうせなかったのは、主の恵みによる。主のあわれみは尽きないからだ。それは朝ごとに新しい。」(哀歌3:22、23新改訳)という御言葉があります。
イスラエルが神の戒めに背き、偶像礼拝にはしり、やがて国が滅びて捕囚の民となってしまっても、神の憐みと恵みは失われず、朝毎に新しい恵みを下さる。絶望状態であっても、滅亡ではない。将来に希望が約束されているのです。
真の神は愛のお方であって、罪深い全世界の罪の贖いとして主イエスを賜ったのです。主イエスは、罪を許し、永遠の命を与えるためにこの世に来てくださいました。これ以上の愛はないほどに私たちを愛し、守り、支え、助けてくださっているお方です。
この愛を疑ってはなりません。疑う必要がないのです。そして、「二人が舟に乗り込むと、風は静まった」(マタイ14:32)とあります。
主イエスがおられるところは平安があります。嵐は消え去るのです。心の中の嵐の中に主イエスをお迎えするなら、おぼれそうになり、今にも滅びてしまうような魂を救い、平安に導かれます。それが救い主イエスというお方です。弟子たちは「本当にあなたは神の子です」と言って礼拝しました。この主イエス以外に真の救いを下さるお方はありません。
死から命に移して下さるお方です。
主イエスを救い主として信じ受け入れた時から、永遠の命の中に移され、地上の死ということの解決をいただいたのです。
私たちの地上の歩みには、これからも逆風や嵐に会うことも、座礁して動きがとれないようなことがあるでしょう。それは、主イエスというお方を体験できるチャンスです。主は共におられ、「恐れることはない。しっかりしなさい。私がいる。」と御声をかけてくださり、平安を与えて導き続けてくださることを確信しましょう。


 ページのトップへ
  
2016年の礼拝メッセージ
  
他の年の礼拝メッセージへ


トップページへ