阪神チャペルセンター
  礼拝メッセージ
 
2016年6月12日
種を蒔く
マタイ13章1−9節

 今年も6月中旬になり、半年過ぎようとしています。祈って備えているゴスペルコンサートはいよいよ来週19日に迫りました。御霊によって一つとなり、福音のために一人一人が用いられるよう祈りましょう。
特に求道中の方々や、お誘いしている方々の救いのために祈りたいと思います。私たち全員の体も魂も守られ、強められて奉仕のために用いられるよう祈りましょう。日吉成人先生のメッセージが祝福されるよう祈りましょう。
今日は、主イエスが「種を蒔く人」の例えを語られて、真理を示してくださったことに心を傾けたいと思います。
群衆が集まって来て、主イエスの御言葉を聞こうとしていました。
主イエスは舟に乗られて座って教えておられました。人々は、湖畔で立って御言葉を聞きました。
私たちの使用している聖書の書き出しは、「種を蒔く人が種蒔きに出て行った。」とありますが、「あの人が種を蒔いている」と、訳している聖書があります。実際に種を蒔く人を見て、この例えを話されたとも考えることができます。主の時代の種蒔きは、大麦とか小麦の種であったと考えることができます。人が、畑を行き来して種を蒔くと、風で種はあちらこちらに飛ばされていきます。あるいは、ロバに種の入った角に穴の開いた袋を背負わせて、畑を行き来させる方法がありました。いずれにしても、緻密な農作業ではありませんでした。種はあちらこちらに飛ばされてしまうのです。
 主イエスはこのような話をされました。ある種は道端に落ちた。これは、人が通る畑と畑の間の道で、踏み固められてしまった所です。すぐに鳥が来て食べてしまいました。別の種は、石だらけで土の少ない土地に落ちた。薄い土の下に石地が広がっている場所です。また、ある種は茨の間に落ちた。根が張っている茨は瞬く間に種を枯らし、茨が残ってしまいました。ある種は良い土地に落ちた。良い地とは、土が深く、混ざりものがなく、やわらかい土です。ここで蒔かれた種は根を下ろして養分を吸い上げて育ち、豊かに実ることができます。
 主イエスはなぜこの例えをもって教えようとされたのでしょうか。
まず、神の御言葉を聞く側の人に教えようとされたことがあります。
心を閉ざして受け入れようとしない人について教えられました。御言葉が語られても受け入れようとしない心です。人は頑なさを持っています。心に自信や経験、誇りがあります。自分に自信や誇りをもっている事は良い事ではあるのですが、それを絶対化してしまうと、真理が示されても受け入れようとはしません。また、それと逆で、自分の生活習慣の中に責められる部分があることが分かっていると、それを改めなくてはならないと、困惑したり恐れて心を閉ざすのです。道端の心と考えることができます。
 次に、様々なことに興味を持ち、次々に行ってみる人。これも決して悪い事ではありません。しかし、芯がないので、やってみるけれどもすぐにやめてしまうのです。なにか困難があると、つまずいて熱がさめてしまい、完成には至らないタイプです。福音を聞くとすぐに受け入れるのですが、試練にあうと躓いてしまう人を表しました。石地のタイプです。そして、御言葉を聞くには聞くけれども、世の中の様々な誘惑、自分の生活、自分の思いが優先してしまって、信仰が覆われてしまう人をについて主は教えておられます。茨のタイプです。
 私たちは、御言葉を聞く側であり、また、伝える側であることを考えたいと思うのです。先の三つのタイプの中で、私たちにとって大きな問題となるのは、三つ目のタイプではないでしょうか。私たちは道端ではありませんでした。主イエスを信じました。石地でもありませんでした。今日まで主を信じ続けています。
クリスチャンが注意すべきは、自分の心と生活の全ての優先順位が主イエスであるかどうかです。心が本当に主にあるかということです。まず主イエスに仕えることがすべての祝福の基いなのです。一番大切なことを後ろに追いやると、生活が混乱し、なすべきことができなくなったり、知らず知らず茨に巻き取られてしまうことに気を付けなくてはなりません。
毎日聖書を読んでいる、祈っている、奉仕している、しかし主がお聞きになるのは、「私を愛するか?」ということなのです。
さて、良い地とは、心を開き、常に御言葉を喜んで聞く人です。
自分はもうこの御言葉はよく知っているではなく、いつでも聞こうとする心です。御言葉を理解し、悟り、心に受け入れていく。聞いた御言葉は実行していく。御言葉で生きるのです。主イエスは、このような人は、100倍、60倍、30倍の祝福を受けると、教えられました。
さらに、主はもう一方の人々にも語られました。それは、御言葉を伝えようとする人々に語られたのです。弟子たちは時々がっかりすることがあったかもしれません。それは、主イエスが神の国について語られても、ユダヤ人指導者たちは受け入れず、憎み、敵対し、また、群衆は喜んで御言葉を聞いて、病を癒していただき、お腹を満たしてもらうような奇跡を体験しても、問題が解決すると主から離れていってしまう。現実的に主イエスが成功しているとはまったく思えなかったのです。 
しかし、主イエスは、このたとえ話を通して、収穫は必ずあると励ましておられるのです。私たちも、伝道してもなかなか受け入れてもらえなくて、気持ちが落ち込むことがあるかもしれません。でも、落胆することはないのです。種は道端に落ちたり、石地に落ちたり、茨に落ちてしまうかもしれません。しかし、収穫の時は必ず来るのです。
何が必要なのでしょうか。それは、種を蒔くことを決してやめないことです。種を蒔く者に必要なのは、希望と忍耐です。私たちが蒔く福音の種には、命があります。永遠の命の種です。
「あなたがたは真理を受け入れて、魂を清め、偽りのない兄弟愛を抱くようになったのですから、清い心で深く愛し合いなさい。あなたがたは、朽ちる種からではなく、朽ちない種から、すなわち、神の変わることのない生きた言葉によって新たに生まれたのです。こう言われているからです。『人は皆、草のようで、その華やかさはすべて、草の花のようだ。草は枯れ、花は散る。しかし、主の言葉は永遠に変わることがない。』これこそ、あなたがたに福音として告げ知らされた言葉なのです。」
(Tペトロ1:22−25)
私たちは、朽ちない種、すなわち神の変わることのない生きた御言葉によって、新しく生まれることができた、永遠の命をいただいた者たちです。神の御言葉は生きていて、人を救う力のある永遠の言葉なのです。
その福音を伝えることを委ねられた者は、神を愛し、人を愛し、倦まずたゆまず、福音の種、生きた御言葉の種を蒔き続けていく。そこに御業が起こされるのです。ゴスペルは、主イエスとその救いについて歌います。救いの喜びを歌います。聖霊が働かれるのです。主イエスの救いの喜びに満たされて、心からの賛美をささげましょう。魂の収穫は必ずあるのです。主イエスに期待しましょう。私たちは、御言葉の種を蒔き続けて行きたいのです。そして、魂の収穫を待ち望みましょう。

「つまり、こういうことです。惜しんでわずかしか種を蒔かない者は、刈り入れもわずかで、惜しまず豊かに蒔く人は、刈り入れも豊かなのです。・・・・・種を蒔く人に種を与え、パンを糧としてお与えになる方は、あなたがたに種を与えて、それを増やし、あなたがたの慈しみが結ぶ実を成長させてくださいます」(Uコリント9:6、10)


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