阪神チャペルセンター
  礼拝メッセージ
 
2016年6月26日
わたしの名を知る者
マタイ章10章26−31節

 先週は、北見神愛キリスト教会の日吉成人先生をお迎えして、幸いな礼拝をささげ、ゴスペルコンサートを開催することができました。この阪神チャペルセンターに集うすべての兄姉の祈りと奉仕、主の祝福の賜物と感謝します。新来会者が9名ありました。この方々や、今回来会されなかった求道中の方々の救いを祈りたいと思います。
 ゴスペルとは、福音という意味であって、主イエス・キリストをたたえ、その御業を崇めて賛美します。イエス・キリストを告白するのですから、魂が救われないはずがありません。
記名決心者が1名ありました。この記名をおろそかにしたくはありません。教会全体で歓迎し、育てて行かなくてはならないのです。
さて、教会とは言うまでもなくキリストを頭としたイエス・キリストの命で繋がる共同体であり、その救いを感謝し、褒め称える者たちの集まりです。神に召された者の集まり、エクレシアといいます。
 皆さんはどちらで生まれ育ちましたか?生粋の尼崎生まれの方は少ないのではないでしょうか。広瀬牧師は京都で生まれ、島根県の仁摩という疎開先の町で終戦を迎え、その後東京の大学に進学して、教会に導かれて献身しました。卒業後、尼崎に遣わされてきました。私は東京で生まれ育ち、教会に導かれ献身して、卒業してから九州に遣わされ、その後尼崎に遣わされてきました。皆さんも、なぜこの教会に導かれたのか、不思議に思うことがあるかもしれません。これは、神の導きと、召しなのです。召されているのでここにいるのです。この召しをしっかり確認すると、自分の信仰がはっきりしてくるのではないでしょうか。
私たちは、全ての事がなかなか思うようにはいかず、試練に悩むことがありますが、神に召された者には、常に最善の導きがあることを覚えることが大切です。また、人ではなく、神が私をどのように思われているかが一番大切であることに気づかなくてはなりません。
主イエスは、2羽の雀が1アサリオンで売られていると言われました。1アサリオンとは、当時の通貨の単位で、1デナリの16分の1にあたります。当時の1デナリを今の貨幣価値に直すのは難しいのですが、仮に5千円だとすると、300円くらいになります。ですから、雀は1羽150円位だったと考えることができます。ところで、主イエスは、天の父は、「あなたがたの髪の毛までも、一本残らず数えておられる」(10:30)とも言われました。人の髪の毛は一体どれくらいあるのでしょうか。薬品研究者はそのような調査をするかもしれませんが、一説には10万本ともいわれています。雀にさえ心を配っておられる神は、あなた方をそれ以上に絶大な価値のあるものとして愛しておられると語られているのです。
この聖書の箇所には、「恐れてはならない」(10:26)「恐れるな」(:28、31)と、3回繰り返して語られています。
何を恐れる必要がないのでしょうか。「人々を恐れるな」とあります。
主イエス・キリストの言葉は真理です。この言葉を聞いたら、屋根の上で、明るい光の中で言い広めなさい。人は人を迫害しても魂を滅ぼすことはできないのですから、恐れずにはっきりと語りなさいと言われているのです。人がどのような反発をしても、恐れずに語りなさいということです。真理は明らかにされるのです。
これは信仰による勇気ですが、クリスチャンはキリストの勇者であると言えます。勇者であるためには、私たちはまず、神に愛されている者であることを信じ、受け入れなくてはなりません。神は、私たちの救いのためなら、その独り子を十字架に架けられることさえ厭われませんでした。そして、生まれながらに罪の子であり、怒りの子である私たちの罪を許され、永遠の命を与えてくださったのです。「もし、神がわたしたちの味方であるならば、だれがわたしたちに敵対できますか。わたしたちすべてのために、その御子をさえ惜しまず死に渡された方は、御子と一緒にすべてのものをわたしたちに賜らないはずがありましょうか。」(ローマ8:31、32)神はわたしたちの味方であって、その独り子を下さった。その方は、キリストを下さったのみか、すべてのものを恵みとしてくださるのです。すばらしい愛の表現です。
人は、パンだけで生きる者ではないと、主イエスは言われました。一つ一つの神のことばで生きるのです。人が人として生きるには、霊的な糧が必要です。神の言葉によらないでは魂が生きることができません。  
御言葉の糧をいただく機会はたくさん与えられています。私たちは聖書を手にしています。字を読むことができます。自分で読むことができるのです。何という恵みでしょうか。教会では、各集会がもたれ、御言葉が語られています。聞くことのできるチャンスがたくさんあるのです。主は、聞く耳のある者は聞くが良いと言われます。「恐れるな」「神は味方」と言われる方の声を聞き、信じていく時、信仰の勇気に満たされるのです。御言葉を慕い求め、その御言葉に応答し、従う者は大きな祝福に預かるのです。
 あなたの前に今、何かが立ちはだかっていますか?あしたのことが心配ですか?誰かと仲たがいしてはいませんか。家庭の中で気持ちが通じ合わないようなことはありませんか。職場の人間関係に悩んだりしていませんか。人は皆悩みながら生きる者です。新聞の人生相談の原稿が尽きることはないのです。私たちの魂が弱りはて、失望しそうな時、執り成し続けておられる主イエスを忘れてしまってはなりません。「死んだ方、否、むしろ、復活させられた方であるキリスト・イエスが、神の右に座っていて、わたしたちのために執り成してくださるのです。」(ローマ8:34)主が全能の権威をもって執り成していてくださいます。執り成しというのは、その人と、その人の問題を良く知らなければできません。私たちは髪の毛一本一本さえ覚えられている者なのです。問題が解決しないわけがありません。神に知られ、愛されている者なのです。
 そして、今日のタイトルは「わたしの名を知る者」というタイトルです。神は私を良く知っておられる。では、私は本当に救い主を知っているかということです。疑ったり、信仰があやふやになったりするのは、実は神を良く知らないのではないかということになります。聖書の教える、「知る」という意味は、体験する、体験して知るという意味があります。教えを単なる教えとして知るのではなく、自分の生活の中で御言葉を体験しているかどうかなのです。生きておられる主イエスを毎日体験しているかを問われるのです。
親は子を忘れるはずがありません。子も親を慕い、呼びます。そのように神が私たちの名を呼び続けておられ、私たちも神の名を呼び続けるところに親しい交わりがあります。しっかりとした神との関係です。
世の中は、ますます愛が冷えて行き、天災はいつ起こるかわからないし、何の保証もないような状況になっていきます。
愛が冷えていくというのは、ますます自己中心になっていき、人に対して必要な助けや、心を寄せられなくなっていくことです。その中で変わることがないのは、真の神であるイエス・キリストによる信仰と希望と愛なのです。信仰と希望と愛を持ち、伝えられるのは、神に知られ、神を知っている私たち、クリスチャンだけであることをもう一度覚えたいと思います。

「彼は・・わたしの名を知る者だから、彼を高く上げよう。彼が私を呼び求めるとき、彼に答え、苦難の襲うとき、彼と共にいて助け 彼に名誉を与えよう。」(詩編91:14、15)


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