阪神チャペルセンター
  礼拝メッセージ
 
2016年7月10日
キリストの模範
フィリピ2章1−11節

 7月は私たちの教会にとって記念の月です。1955年7月23日に、最初の会堂の献堂式が行われています。61年という月日が流れました。
私たちの教会は、当時の熱い伝道スピリットをそのまま受け継がれている教会です。すでにジョンストン宣教師ご夫妻をはじめ、当時ご奉仕くださった方々は天に召されていますが、今私たちはその召命を受け継いでここにあります。
 教会が成長していくとは、クリスチャンである私たち一人一人が成長するということであると考えられます。
クリスチャンはどのようにして成長するのでしょうか。それは、救い主であるイエス・キリストの御言葉によって生きることによってです。
そうするなら自ずと成長していくと考えられます。
聖書は、教会の中に育まれている、「キリストによる励まし、愛の慰め、御霊による交わり、慈しみや愛の心」があるなら、心と思いを一つにすることができると教えています。神様は、愛と調和の神です。神は混乱の神ではなく平和(秩序)の神です。主を信じる者たちが聖霊によって一つになることが御心です。
さて、フィリピの町は、福音が初めてヨーロッパに伝わった町として有名です。パウロは、マケドニア人の幻を見て、ヨーロッパ伝道に導かれて、フィリピに到着し、祈り場で紫布の商人リディアと出会いました。リディアは、パウロが語る言葉を注意深く聞いたとあります。主が彼女の心を開かれ、聖霊によって主を信じ、リディアと家族は救われ、洗礼を受けました。ヨーロッパ伝道の初穂です。更に、鞭うたれて獄屋に繋がれていたパウロとシラスによって、牢獄の看守と家族が救われ、やがて教会が形成されたのです。
パウロはローマの牢獄の中でこの手紙を書きましたが、フィリピの教会に、あなたがたは最初の日から今日まで福音にあずかっている。あなたがたの中で善い業を始められた方が、キリスト・イエスの日までに、その業を完成させて下さると確信していると記しました。牢獄の中に捕らえられているパウロにとって、フィリピの教会がキリストを受け入れたその日から、今日に至るまで、教会が建て上げ続けられていることが、大きな喜びであったのです。そして、ひたすら福音にふさわしい生活をしなさいと励ましました。「福音にふさわしい」とは、生活によって、キリストが証しされることと言えるでしょう。言葉と、行いがキリストの教えに沿ったものであるということです。上べだけなら何事もすぐに崩れてしまいます。人がキリストを心に迎え、この方に心から従う時、聖霊によって聖くされ続けます。聖化していくのです。
フィリピ2章1節に、そこで、あなたがたは思いを一つにするようにとあります。キリストの励まし、愛の慰め、御霊の交わり、慈しみと憐みの心、これは、主イエスを受け入れた者たちの教会に与えられる恵みの賜物です。また、クリスチャンホームや、クリスチャン同士の交わりの中に与えられる祝福です。これらが表されるなら、そこには平和と喜びしかありません。争いや不和の原因は、利己心です。また、見得や、高慢が争いの原因になります。そして、それらは良い実を実らすことはありません。深い闇と傷をもたらすのです。
パウロは3回の伝道旅行をしました。フィリピ教会は、2回目の伝道旅行の時の実です。1回目の時、ピシディアのアンテオケで、全市のほとんどの人々が集まるという、宣教大集会が開かれました。そこでキリストと、その救いがストレートに伝えられました。パウロは、出エジプトから説き起こし、イエスこそダビデの末から来られると約束されたメシアであること。バプテスマのヨハネが道備えをしたこと。キリストが死に至る理由が何もないのに、十字架に架けられ死んで復活したこと。キリストによる罪の許しが完成され、罪ある者が義とされること。信仰によって救われることが伝えられました。これが福音です。ところが、パウロたちに反発し、反対するユダヤ人たちは、キリストを信じて救われるという真理について論じるのではなく、群衆が集まっているのを見てひどく妬んだとあります。本当に大切なことに目を向けるのではなく、妬みに駆られて口汚く罵ったのです。これが人間の罪の深さです。利己的な妬みのある所に良い実は実りません。この時からパウロたちは異邦人伝道に導かれるようになりました。
妬みの心は、本当に必要な唯一のものを逃してしまうのです。
主が教えておられる、福音にふさわしく生きるとは、利己心や虚栄心を主の十字架に釘つけてしまうところから始まります。人は生まれながらに罪をもっています。「神は、わたしたちの一切の罪を赦し、規則によってわたしたちを訴えて不利に陥れていた証書を破棄し、これを十字架に釘付けにして取り除いてくださいました。」(コロサイ2:14)払いきれない借財を無効にしてくださいました。神は、こうして私たちの内なる人を生かして下さったのです。
私たちは常に目と心を、人ではなく主イエスに向けるべきです。
この方はどのような方でしょうか。
神であるのに、神であることに固執されなかった。そのすべての正当な権利を行使されずに、ご自分を無にされました。十字架の死に至るまで従順であられました。神であられる方がそのようになさって謙遜な姿勢を最後まで貫かれたのです。
僕の身分になり、人間の姿をとられました。それは神が僕(奴隷)になられたのです。これは驚くべき事実というほかはありません。現代は、人権が確立していて、奴隷という身分はありません。しかし、聖書の時代には奴隷の身分の人たちがいました。ユダヤ人奴隷は週6日働き、安息日には仕事は休みでした。シナゴクに礼拝にいきました。6年間働くと7年目には自由になりました。解放されるのです。7年を7回数えて50年目は、ヨベルの年で、奴隷は解放され、人手に渡っていた土地は元の所有者に戻されるという律法が定められていました。解放の年です。この年が始まる時、角笛(ヨベル)が吹かれたので、ヨベルの年と呼ばれたのでした。主は、伝道を開始された時、ナザレの会堂でイザヤ書61章を読まれて、主の恵みの年(ヨベル)が告げられたと宣言されました。罪からの解放と、新しい戒めである愛によって歩む新約の恵みの時代が到来したと宣言されたのです。
主イエスが徹底されたのは、僕として仕えることでした。神と人とに仕えられたのです。
「へりくだって、互いに相手を自分より優れた者と考え、めいめい自分のことだけでなく他人のことにも注意を払いなさい。」(フィリピ2:3)
これは、互いに他の人を自分よりも高く評価するという教えです。夫と妻がこのように互いに受け入れあい仕え合うなら、家庭がうまくいかないはずがありません。身を低くし、仕え合うところに平和と調和があるのです。
自分以外の人のためになるかどうか、その人が益を得られるかどうかに注意を払いなさいと教えておられるのです。
謙遜さを貫かれた主イエスは、全世界が賛美するにふさわしい方として、高くその御名を引き上げられました。身を低くされた方は、礼拝をささげられるにふさわしい、すべての名に勝る方として、全世界が跪き(ひざまずき)、「イエスキリストは主(キュリオス)」とたたえられるのです。
信仰は生活です。生活の中で主イエスの御言葉に従い、歩んでいるかどうかが大切なのです。主の模範に倣いましょう。主が徹底して従順と謙遜に生きられたように、徹底して遜(へりくだ)るなら、私たちも神の前に高くあげられることを確信しようではありませんか。


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