阪神チャペルセンター
  礼拝メッセージ
 
2016年7月17日
語り続けよ
使徒18章5−11節

 詩編102編19節には、「主を賛美するために民は創造された」とあります。人は、神を崇め、賛美し礼拝するために創造されたのです。神と霊的な交わりができるのは、神の霊を吹き入れられて生きる者となった人間だけなのです。(創世記2:7参照)
 創造の目的は、神を礼拝し、神の栄光を表すことを常に心に留めるとき、神の豊かな祝福、豊かな命に生きることができます。
しかし、アダムとエバから、罪がこの世に入り、人は霊的な命を失ってしまいました。神との断絶です。体は生きていても、霊的に生きることができず、さらにそのことすら知らない、気づかない、知らないまま滅びの道を進んでいってしまうのです。
現実の生活は厳しいものがあります。私は時々新聞の人生相談欄に目を通します。いろいろな相談があります。現在日本は、高齢化が進み、健康で年を重ねていければよいのですが、多くの高齢者は、介護が必要になってきています。昨日は、老々介護をする妻から、あまりに負担の多い在宅介護についての相談が載っていました。夫は月5日間ショートスティを利用し、毎日ディサービスに行っているのですが、その他の時間は一人で介護しなくてはなりません。自身も病身で介護に自信が持てないとの訴えでした。介護される方は、思うように行かないと、妻に苦情を言ったりするので、それもつらいようです。
 だれしも一度しか送ることのできない大切な人生です。そして、御国に迎えられるその時まで、外なる人が衰えても、最高の人生だったと告白できるような生活を送らなければなりません。主を信じる者は、
「だから、わたしたちは落胆しません。たとえわたしたちの『外なる人』は衰えていくとしても、わたしたちの『内なる人』は日々新たにされていきます。」(Uコリント4:16)とあるように、内なる人は日ごとに新しくされているという素晴らしい体験をすることができます。
これは、誰が体験するのでしょうか。イエス・キリストを救い主と信じ受け入れた者が体験するのです。
 使徒言行録には、パウロやペトロや、多くの弟子たちが迫害の中で宣教していく姿が記録されています。宣教すると必ず迫害が起こり、時には投獄されて鞭うたれたり、命を狙われたりと、厳しい状態が続きます。それでは、大変だから宣教をやめようか、宣教しなければ命を狙われることもないだろうとは考えることすらなく、ひたすら進んでいきます。
パウロは第二回目の伝道旅行で、マケドニア(ヨーロッパ)に渡り、フィリピ、テサロニケ、ベレア、そして、アテネ、コリントへ導かれてきました。迫害されて次の町へ導かれるというパターンでした。パウロはコリントでも力強く御言葉を語りました。福音とは、イエスはキリスト、救い主であること、この方が全世界の罪の贖いを十字架で成し遂げてくださった。三日目に復活された主であり、永遠の命を与え、信じる者が主の復活の命で主と共に生きるという、最高の良い知らせ、罪からの解放の知らせ、魂が生き返る知らせです。この方(イエス・キリスト)による以外に救いの方法がないならば、どんなに迫害されても、妨害されても宣教をやめるわけにはいきません。
コリントでもユダヤ人の激しい反抗がありましたが、コリントのシナゴクの司、クリスポという人の一家が主を信じたのです。また、コリントの多くの人が主を信じました。
ある夜、主は幻の中でパウロに語られました。「恐れるな、語り続けよ。黙っているな。わたしがあなたと共にいる。だから、あなたを襲って危害を加える者はない。この町には、わたしの民が大勢いるから」(使徒18:9、10)。パウロは、一年半コリントに滞在して、神の言葉を語り続けました。その後、コリント教会が建て上げられていったのです。
コリントの町は、コリント競技の発祥地であり、商業都市として栄えていたのですが、大変不道徳な町として有名でした。大きなアポロ神殿があり、人々は偶像礼拝を盛んにしていました。そのような中でも神の御業は進められていきました。不道徳だから救われないのではなく、罪があるから救いがあるのです。
神はパウロを励まして下さいました。短いメッセージの中に多くの力強い言葉が語られています。「恐れないで語り続ける」ことが告げられました。聖書には常に「恐れるな」とあるのです。「恐れるな、わたしはあなたを贖う。あなたはわたしのもの。わたしはあなたの名を呼ぶ。水の中を通るときも、わたしはあなたと共にいる。大河の中を通っても、あなたは押し流されない。火の中を歩いても、焼かれず 炎はあなたに燃えつかない」(イザヤ43:1、2)。
主は「わたしはあなたと共にいる」と言われます。だからあなたに危害を加える者はいない。そして、この町には私の民が大勢いるから、黙らないで、福音を伝え続けなさいと言われたのです。救われるべき人々が大勢いるのです。伝えるなら、救われるのです。主の宣教の方法は人を通しての方法です。
主は、パウロだけに語られるのでしょうか。天地を創造された、全知全能の神は私たちにも語られています。私たちが遣わされている所で聖霊に導かれて伝える時に御業が現れます。主は私たちに語らせて下さる機会を下さいます。黙っていないで、恐れずに、率直にキリストを語るなら、救いが起こるのです。
主は、私たち一人一人を愛し、常に共にいると言われているのです。これほどの安心はありません。この理由は、「神に贖われた」、神の者とされたからです。それが救いなのです。
孤軍奮闘という言葉があります。試練や困難の中、だれも理解者がいない、助け手がいない、孤独な戦いが続くという意味です。だれしもがそのような思いに苦しむ時があるのではないでしょうか。私の苦しみは誰にも解らないだろうと思うのです。確かにその通りかもしれません。同じような体験があっても、同じ体験はできないからです。
だから、救いが必要なのです。真の神があなたと共にいて助けると言っておられるのです。この方がくださるのは、命と平安です。
折にかなった助けと、休息、必要の全てが与えられるのです。そして、永遠の命です。
「疲れた者、重荷を負う者は、だれでもわたしのもとに来なさい。休ませてあげよう。わたしは柔和で謙遜な者だから、わたしの軛(くびき)を負い、わたしに学びなさい。そうすれば、あなたがたは安らぎを得られる。わたしの軛は負いやすく、わたしの荷は軽いからである」
(マタイ11:28−30)
私たちは、コリントには行けません。上海にも行くことはできません。
しかし、それぞれが遣わされている所があるのです。あなたしか入ることのできない所があるのです。家庭や職場、サークル、地域などが考えられます。苦しんでいる人、悩んでいる人、病気の人、行き詰っている人が大勢いるのです。
すべての解決はイエス・キリストによる救いです。まず信じるところからすべてが変えられて行きます。主が共におられることが解るのです。
苦しみの中にあっても、素晴らしい平安の証を持つ者に変えられます。
神は私たちを通して御業を表して下さいます。まず、イエス・キリストを中心とした生活を築きましょう。礼拝、祈りと御言葉、信仰、奉仕です。信仰は体験です。素晴らしい救い主を毎日体験し、多くの人々に恐れず機会を逃さず語り続けましょう。


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