阪神チャペルセンター
  礼拝メッセージ
 
2016年7月24日
宣教の実
マタイ28章11−15節

 7月は阪神チャペルにとって記念の月です。1955年7月23日に最初の会堂であった、ジョンストンホールが献堂されました。
多くのささげものと奉仕によって建て上げられた会堂です。
祈り会でも申し上げましたが、まず土台をしっかり作るために、ジョンストン宣教師は車にトレーラーをつなげて、武庫川の上流から子供の頭位の大きさの石を何度も運び、深く掘った地面に敷き詰め、コンクリートで固めました。しっかりした土台の上に、コンクリートブロックを造りながら積み重ね、多くの奉仕者の働きによって建て上げられました。
ここに教えられることは、この尼崎に福音を伝えるために、国籍を問わず、立場を問わず、会堂のために心を一つにして力を合わせたという事です。建て上げられた時、携わった人々はどんなにうれしく、主を崇めた事でしょうか。その後、教会は成長し、1979年4月に新会堂が完成して、5月14日に、教団名誉総理であった弓山喜代馬師をお迎えして献堂式を行いました。
最初に遣わされていたのは、故中沢四郎師でしたが、中沢師は海外伝道へのビジョンを持たれて、準備のために四国へ転任されました。廣P師は1960年着任されました。
私たちは、日本アッセンブリ―教団に属している教会です。教団は、1949年に設立されていますが、それ以前に神のご計画によって、宣教の働きが始められていました。1913年に、アメリカ、オハイオ州で商店を経営していた、C・Fジュルゲンセンが、聖霊に満たされ神の導きの元、日本宣教の幻が与えられました。当時、仕事も生活も安定していました。日本語も知らず、日本についても何も知らないままでした。神学校で学んだ事もなく、年は51歳でした。
妻と、二人の幼い娘さんを連れて、知り合いもいない日本に上陸しました。長女のマリヤは、横浜で宿泊したホテルで、皆が「おはよう」というのを、「オハイオ」と聞いて、日本人がなぜ私たちがオハイオから来たのを知っているのかと、不思議に思ったと話されていたのをお聞きしたことがありました。すぐに日本語を習得されて、お父さんが路傍などで説教するときの通訳者になったのです。マリヤ先生は、1980年ころ、引退されてアメリカに帰国されるまで、英語なまりの流ちょうな格調高い日本語で説教され、聖書は文語体を使っておられました。
ジュルゲンセン一家は、東京の本郷などで伝道されて、滝野川にある神召キリスト教会を建て上げられて、伝道の拠点とされました。1923年息子さんのジョン・ジュルゲンセン師と、弓山師が出会い、協力体制で伝道が推し進められました。戦争を挟んで宣教師たちは帰国せざるを得なかったのですが、戦後いち早く来日して、1949年東京駒込に日本アッセンブリ―教団が設立されました。ジョンストン師も、宣教師として来日されて、目覚ましいお働きをなさいました。聖霊に満たされ、聖霊によって宣教が推し進められていく、教団、教会です。
私たちは、そのような流れの中で、信仰の先輩たちが残してくれた素晴らしいものを受け継いで、今ここにあります。
 主イエスは、全世界の罪の贖いのため、十字架に架かり、三日目に甦られ、天に昇られました。その前に、主は弟子たちに大切な命令をなさり、また約束をなさいました。主イエスがどのようなお方か示して下さいました。
「わたしは天と地の一切の権能を授かっている」。天においても地においても絶対的な力をもっておられる方です。人が持つ心の罪を、人はだれも赦したり、清めたりする事はできません。ただ主イエスが十字架で身代わりとなられた事、死んで三日目に甦られた事を信じる時、罪赦され、永遠の命に生かされるのです。主イエスだけがもっておられる権威です。「ほかのだれによっても、救いは得られません。わたしたちが救われるべき名は、天下にこの名のほか、人間には与えられていないのです。」(使徒4:12)主イエスだけが救い主なのです。
この主イエスは、「行って、すべての民をわたしの弟子にしなさい」と命令されました。これは、主イエスを信じ、救われた者は主の弟子として生きるという意味です。私たちは主を信じましたで、終わるのではなく、主の弟子として召されたということです。
弟子とは、その師に学び、いつも後についていくことを意味します。ですから、クリスチャンは、キリストの弟子であるなら、日々主に従っていく者たちといえるのです。クリスチャンだけれど、弟子ではないということはありえません。キリストに従い学び続けていくものです。
ですから、主は、伝道というのは、主を伝え、主を信じた者をキリストの弟子として導く事と教えておられます。
まず私たちが主の弟子であることを覚えなくてはなりません。弟子というと窮屈で大変と思う必要はありません。主イエスは常に平安と休息を下さいます。「疲れた者、重荷を負う者は、だれでもわたしのもとに来なさい。休ませてあげよう。わたしは柔和で謙遜な者だから、わたしの軛を負い、わたしに学びなさい。そうすれば、あなたがたは安らぎを得られる。」(マタイ11:28,29)と言われています。イエス様に学ぶなら平安なのです。
 主が伝えられ、信じるところに、不思議な御業が起こります。それは、絶望からの回復、命に満ち溢れることができる御業です。体と心の癒し、そして永遠の希望です。アッセンブリ―ニュース7月号に、北見神愛キリスト教会の、ある姉妹の証しが載っています。短い証しですが、6月19日に日吉先生がメッセージで触れておられた姉妹だとすぐわかりました。この方は、受洗を決心してから病気になってしまった。さまざまな不信感や生活の心配、受洗への不安で心が一杯になって揺れ動く時、自分の不信仰に気づき、悔い改め、すべてを委ねる事ができたという内容です。受洗し、その後病気の癒しを体験したのです。癒された責任、救われた責任をもって歩んでいきたいと結んでいます。キリストの弟子となられたのです。
私たちの日々も奇跡の連続ではないでしょうか。キリストを伝えれば必ず信じ、父、子、御霊によってバプテスマを受ける者が起こされます。
求めれば聖霊のバプテスマも与えられます。主が新しい戒めとして与えられた「互いに愛し合う」生き方が実現するのです。互いに愛し合うところは地上の天国です。
主イエスは何より素晴らしい約束をしてくださいました。「わたしは世の終わりまで、いつもあなたがたと共にいる」という約束です。私たちの主は遠い主ではなく、常に、どこでも、すぐ近くにいてくださる、共におられる方なのです。だから何も心配することはありません。
私たちは、かつての伝道の実です。尼崎で、あるいはまた他の地で、誰かが福音を伝えて下さったのです。そして、私たちも宣教の実を残したいのです。弟子が師に学ぶのであれば、主イエスが魂を愛されたように、私たちも魂を愛することが遣わされる事の動機になるでしょう。
弱っている魂、苦しんでいる魂、悩む魂が本当に沢山おられるのです。どのような問題でも、根本的な解決は主イエスです。心の目がくらまされて主イエスに対して心を開くことができない方もあるでしょう。祈ることです。人にはできなくても主はおできになります。主の栄光の御業の継承者として、新しい信仰をもって進んでいきましょう
「あなたがたがわたしを選んだのではない。わたしがあなたがたを選んだ。あなたがたが出かけて行って実を結び、その実が残るようにと、また、わたしの名によって父に願うものは何でも与えられるようにと、わたしがあなたがたを任命したのである。互いに愛し合いなさい。これがわたしの命令である。」ヨハネ15:16、17


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