阪神チャペルセンター
  礼拝メッセージ
 
2016年8月7日
永遠の命を得るため 
ヨハネ3章1−16節

 8月に入り、酷暑が続いています。今日も元気に主を賛美し、礼拝できる恵みを心から感謝します。
私たちは、主の恵みにより生かされ、守られ支えられています。常に心を主に向けて、前進していきたいと思います。
主イエスは、「わたしの言葉を聞いて、わたしをお遣わしになった方を信じる者は、永遠の命を得、また、裁かれることなく、死から命へと移っている」(ヨハネ5:24)と言われました。
ある時、サンヒドリンの議員であり、ファリサイ派であるニコデモという人が、夜に主イエスを訪ねてきました。サンヒドリンというのは、当時のユダヤの最高議会で、議員は70名でした。宗教上の指導者としての役割を果たす人々の内の一人であったのです。そして、ニコデモは、かなり裕福であったと思われ、十字架で主イエスが死なれた時に、没薬と沈香を混ぜたものを百リトラほど持ってきました。これは大変に高価なものでした。ニコデモはアリマタヤのヨセフと共に、主の葬りの世話をした人でした。
ヨハネによる福音書の特徴の一つは、主イエスと人との会話の流れにあります。今日の場合は、ニコデモが主イエスに語り、それに主は霊的に答えられるのですが、質問する人は理解できずにいます。主はさらに理解できないような事を言われるというパターンです。
ニコデモが、「あなたが神のもとから来られた教師であることを知っています。神が共におられるのでなければ、あなたのなさるようなしるしを、だれも行うことはできないからです」(ヨハネ3:2)と言った時、主は「はっきり言っておく。人は、新たに生まれなければ、神の国を見ることはできない」(3:3)と答えられました。ニコデモは、「人がもう一度母の胎内に入って生まれることなどできるでしょうか」と答えました。ニコデモは、主イエスは不思議な事を言われると思ったことでしょう。主はさらに、「だれでも水と霊とによって生まれなければ、神の国に入ることはできない。肉から生まれたものは肉である。霊から生まれたものは霊である」(3:5、6)と言われました。
ニコデモは、ますますわからなくなってしまいました。そして主に、「あなたはイスラエルの教師でありながら、こんなことが分からないのか」(3:10)と言われてしまいました。
主イエスがお語りになる時、その意味を肉の力や、自分の知識で理解しようと思っても難しいのです。主イエスが伝えようとされたのは、人が神の国に入るためには、「新しく生まれる」ことがなければならない事でした。水と霊によって、生まれるという事です。それは、人の救いを表すのですが、救いは主イエスを個人的に心に受けいれるところに起こります。Tコリントの手紙に「また、聖霊によらなければ、だれも『イエスは主である』とは言えないのです」(12:3)とあります。聖霊によって主を救い主と告白できるとあります。聖霊は人が主を心に受け入れる時、主イエスを告白させて下さるのです。そして、主イエスを信じた者は、その信仰を神と人の前に公に告白し、水のバプテスマに預かります。水のバプテスマは、生涯主を信じ、従うという告白と証です。
ヨハネによる福音書は、使徒ヨハネによって記された福音書ですが、特に永遠の命を得るようにと強調されています。人にとって一番大切なものは、この地上にはありません。地上にあるものはいつか失われてしまうものです。今は栄えていても、やがて「草は枯れ、花は散る」(Tペトロ1:24)のです。
人は地上の生活の事で心が一杯であり、この世の事に心を配る者です。しかし、救いも受けたいのです。ある一人の青年が、主の許に来て、「先生、永遠の命を得るには、そんな善いことをすればよいのでしょうか」(マタイ19:16)と質問しました。主はモーセの律法を守れと言われました。「殺すな、姦淫するな、盗むな、偽証するな、父母を敬え、また、隣人を自分のように愛しなさい」と教えられたのです。この青年が、「それらの事は皆守ってきました。まだ、何か欠けているでしょうか」と聞くと、主は「もし完全になりたいのなら、行って持ち物を売り払い、貧しい人々に施しなさい。それからわたしに従いなさい」と言われました。この青年は悲しみながら立ち去りました。何が悲しかったのでしょうか。たくさんの財産をもっていたからです。この青年は、自分が律法を守る者であると思っていたのですが、神よりも自分の財産に心がありました。ですから、財産ではなく、神に心を置くようにと教えられたのです。肉の思いを捨てて、主に従う事なのです。この時、悔い改めて主に従う事を選んだなら、聖霊は直ちに働かれて救いを体験したでしょう。もう一人、エリコのザアカイも富に縛られていた人でした。ローマ帝国の徴税人の頭でしたから、人々には忌み嫌われていましたが、金持ちでした。主イエスがエリコの町に来られた時、ザアカイは主を見たいと思いましたが、人々に阻まれて、いちじく桑の木に登って主を見ようとしました。ところが、主はザアカイの許に来られて、「ザアカイ、急いで降りてきなさい。今日はぜひあなたの家に泊まりたい」と言われました。ザアカイは、急いで木から降りて、喜んで主を家にお迎えしました。人々は、主がザアカイの家に泊まられたことについて批判をしましたが、ザアカイは、立ち上がって、「わたしは財産の半分を貧しい人に施します。また、だれかから何かだまし取っていたら、それを4倍にして返します」と宣言しました。主は、「今日、救いがこの家を訪れた。人の子は失われたものを捜して救うために来たのである」と言われました。ザアカイは救いを受けました。永遠の命を得たのです。この二人の違いはどこにあるのでしょうか。それは、永遠の命の価値について知っているか知らないかであったと思います。本当になくてならないものであると求めていたかどうかなのです。
永遠の命は大切なただ一つのものです。主は、それを与えるためにこの世に来られ、十字架に死なれ、三日目に復活されたのです。
主は、「風(霊、プニューマ)は思いのままに吹く。・・・霊から生まれた者も皆そのとおりである」(ヨハネ3:8)と言われたのです。ニコデモは理解できませんでした。主イエスは、人は聖霊がどのように働かれるのか見ることはできない。しかし、人が聖霊によって造りかえられ、新しい命に生きることを見ることができると諭されました。そのためにモーセが荒野で蛇をあげたように、主は十字架に架けられるのだと告げられたのです。
信仰とは、主の言葉を信じるところから始まります。主を心の中にお迎えした時に、聖霊によって新しい命に満たされ、新しい人生が始まります。
罪が蔓延しているこの世の中には確実なものはありません。命ですら何の保証もありません。明日のことすら私たちにはわかりません。
イエス・キリストとこの方を信じる信仰だけが確実なものなのです。
「イエス・キリストは、きのうも今日も、また永遠に変わることのない方です。」(ヘブライ13:8)
私たちは常に自分自身の信仰のあり方について、主の前に探っていく必要があります。金持ちの青年のようではないだろうか、この世の何かに心を寄せていることはないだろうか、愛に欠けてはいないだろうかを思いめぐらし、悔い改めるなら、主はたちどころに聖霊の光を満ち溢れさせ、永遠の命の確信と喜びに満たして下さいます。
永遠の命に生かされていることに大きな感動をもつなら、それは伝道に繋がるのです。
きのうも今日も変わらない主に直ちに従っていく信仰に生きましょう。


 ページのトップへ
  
2016年の礼拝メッセージ
  
他の年の礼拝メッセージへ


トップページへ