阪神チャペルセンター
  礼拝メッセージ
 
2016年8月14日
神との間の平和
ローマ5章1−5節

 8月15日は、終戦記念日です。71年前に戦争が敗戦という形でやっと終わりました。戦争が好きな人はいないと思います。
ある日、国から召集令状が届いて、父や兄が否応なく戦地に駆り出されていく。戦場にいけば生きて帰れるかどうかさえ分からないのです。また、日本国内でも大空襲や、原爆で数えきれない人々が命を失い、後遺症で苦しみ、大変な困難の中、やっと平穏な生活を築いてきました。
今生きている私たちは、そのような苦難の中にあった方たちの築いたさまざまなものの上に生かされていることを忘れてはいけないのだと思います。
私たちは、イエス・キリストの十字架の贖いによって罪が許された者です。それは、「義とされた」という言葉で言い表されます。義とされたとは、神の前に完全に正しい者と宣告されたという意味です。
罪深い者が主の十字架で許され、罪のない者と認められたのです。
アダムとエバが神に背いたところから罪が全世界に入り、人は生まれながらに罪を持っています。これは原罪と言い、自己中心であり、高慢であって、人を裁き、神を信じようとしない心を持っています。神ならぬものを信じ、自分の利益のみを考えるようになってしまいました。そこに争いや戦争の原因があります。「わたしたちは羊の群れ 道を誤り、それぞれの方角に向かって行った。」(イザヤ53:6)「彼らは平和の道を知らない。彼らの目には神への畏れがない。」(ローマ3:18)とある通り、おのおの自分の思う道を進むのですが、行く先は滅びでしかありませんでした。神との断絶です。箴言には、「人間の前途がまっすぐなようでも 果ては死への道となることがある」(14:12)とあります。自分ではこれが正しい道だと思っても、滅びの道だという意味です。
神はそのような罪の世をそのままにしておくことができませんでした。一人も滅びて欲しくないのです。それで、独り子イエス・キリストをお遣わしになり、罪を贖うために十字架に架けられ、3日目に復活させて下さったのです。この方を救い主として心に受け入れる者は皆、義とされる、すなわち罪赦され、永遠の命に生かされます。これが福音です。
さらに、福音によって、「神と和解」し、「神との平和」な関係を持つことができたと教えられています。
人は弱さを持ち、赦されてもなお罪を犯すこともありますが、悔い改める時、直ちに赦され、新しくされます。
ダビデという人は、幼少のころから神を信じる者でありましたが、ユダヤの2番目の王となり、国が平定され王の地位が安定した時に大きな罪を犯しました。ある時、ヘト人ウリヤの妻であるバト・シュバという人を見染め、自分の許に召し寄せて、子を宿らせてしまいました。すると、ダビデはバト・シュバの夫ウリヤを戦地から呼び戻し、親しそうに戦果などを問い、家に帰らせて自分の罪を隠そうとしました。ところがウリヤは本当に誠実な人で、上役や仲間が戦場で苦労しているのに、自分だけが家に帰るわけにはいかないと王宮の入り口で眠り、どんなに説得しても家に帰りませんでした。そこでダビデは、忠実な家来であるウリヤをわざと戦死させ、バテ・ジュバを王宮に迎えたのでした。「ダビデのしたことは主の御心に敵わなかった」(Tサムエル11:27)とあります。当然なことだと思います。信仰深いダビデであったのに、姦淫を犯し、その罪を隠すためにさらに殺人の罪を犯したのです。ダビデは肉の欲を治められませんでした。「人はそれぞれ、自分自身の欲望に引かされ、唆されて、誘惑に陥るのです。そして、欲望ははらんで罪を生み、罪が熟して死を生みます」(ヤコブ1:14,15)誰でも自分自身の肉の欲に引かれ、罪にだまされ、その誘惑が身ごもると罪を生み、それが成熟して死にいたるという意味です。罪の誘惑は巧妙で、人の心を誘うものなのです。この時宿った子は生後すぐに亡くなりダビデは大いに嘆きました。
やがて、王のもとに預言者ナタンが遣わされ、たとえ話によって念入りに罪が指摘されると、ダビデは、「そんなひどいことをする者は死刑が当然だ」と言いました。「王よ、それはあなただ」と言われた時、「わたしは主に罪を犯した」と言って悔い改めました。しかし、このことによってダビデの家にはさまざまな争いの種が蒔かれることになってしまいました。
ダビデは、「神よ、わたしの内に清い心を創造し 新しく確かな霊を授けてください。御前からわたしを退けず あなたの聖なる霊を取り上げないでください。御救いの喜びを再びわたしに味わわせ 自由の霊によって支えてください」(詩編51:12)と歌いました。
恐ろしい罪を犯してしまい、神との関係が絶たれたのですが、悔い改めた時、もう一度神との断絶が回復し、神との平和が戻ったのです。
私たちも罪深い者でありますが、イエス・キリストによって、神との平和を持っているという事実を深く確信しなくてはなりません。
神との平和を持つ者は、神の栄光を表す者とされ、どんな苦難にも耐える力が与えられています。
苦難は誇りでさえあるのです。「苦難は忍耐を、忍耐は練達を、練達は希望を生む」(ローマ5:3−4)とあります。「練達」とは、揺るぎのない信仰によって常にあるという事で、このような者は、永遠の命の喜びと、希望に常に満ち溢れています。「希望はわたしたちを欺くことがありません」(ローマ4:5)主イエスに希望をおいている者は、失望に終わることは決してありません。それは、神が私たちを限りなく愛されるからなのです。
罪がこの世に入ったのは、アダムとエバからなのですが、神との豊かな交わりを持ち、エデンという園で暮らしていた二人は、ある時、サタンに誘惑されてしまいました。
神の言われることを正確に覚えていないという愚かなことが原因でした。神は、「園のすべての木から取って食べなさい。ただし、善悪の知識の木からは、決して食べてはならない。食べると必ず死んでしまう」(創世記2:16)と命じられました。しかし、蛇が「園のどの木からも食べてはいけない、などと神は言われたのか」と言った時、エバは、「わたしたちは園の木の果実を食べてもよいのです。でも、園の中央に生えている木の果実だけは、食べてはいけない、触れてもいけない、死んではいけないから、と神様はおっしゃいました」と答えました。蛇が決して死ぬことはない、神のようになるのだと言った時、唆されて木の実を食べ、夫にも食べさせてしまいました。その時、目が開けて裸であることを知り、イチジクの葉で腰を覆ったのでした。その時から神との断絶が始まったのです。罪と死が世に入り、アダムとエバはエデンから追放されなければなりませんでした。神はこの二人に皮の衣を作って着せてくださったのです。イチジクの葉はすぐに枯れてしまうでしょう。罪を犯した者の上に神は愛を表して下さり、神の贖いの計画を示して下さいました。私たちは、罪赦された者です。十字架で贖われ、神を「アッバ、父よ」と呼んで、親しく何の隔たりもなく、近づくことができるようにしてくださいました。アダムから罪が全世界に入り、キリストによって全世界の罪が贖われたのです。
 私たちはキリストにあって、魂の平和を持つものであり、また、それは人との平和を保つ者であることを覚えましょう。キリストの平和が世界の平和につながります。平和を作り出す者としての生き方に祝福があることを感謝します。


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