阪神チャペルセンター
  礼拝メッセージ
 
2016年8月21日
キリストを見上げて
エフェソ2:8−10節

 暑さが続いていますが、私たちの体と、魂は渇いていないでしょうか。
みことばと、祈り、礼拝によって聖霊が心の底から泉のように沸き上がり、潤され、さらに神を崇めていきたいと思います。
聖書には、「愛する者よ、あなたの魂が恵まれているように、あなたがすべての面で恵まれ、健康であるようにと祈っています。」(Vヨハネ:2)とあります。魂も、体も、またすべてが恵まれ、健やかであるようにと、これからも祈り合って行きたいものです。
さて、私たちは、主イエス・キリストの十字架によって贖われ、罪が許され永遠の命をいただいたという信仰によって生かされている者です。永遠の希望をいただいています。
そして、「わたしたちは、神に造られたものであり、しかも、神が前もって準備してくださった善い業のために、キリスト・イエスにおいて造られたからです。わたしたちは、その善い業を行って歩むのです」(エフェソ2:10)と教えられています。
聖書は、主イエスに贖われて、恵みにより永遠の命を得た者がどのように歩んで、祝福の日々を歩むかを教えています。
神が前もって準備された善い業のために歩むのだということです。
善い業とは、いったいどのような業なのでしょうか。
まず、自分の持っている信仰を常に吟味することが大切です。
わたしは、学生の時、試験さえなければ学校は楽しいと思っていました。しかし、学校はいつも試験があるところでした。
私たちの信仰生活にも時々試験があります。試練とか鍛錬とか言われるものです。
しかし、この試練は私たちが乗り切れない試練ではありません。主は私たちの状態をよくご存じであって、「あなたがたを襲った試練で、人間として耐えられないようなものはなかったはずです。神は真実な方です。あなたがたを耐えられないような試練に遭わせることはなさらず、試練と共に、それに耐えられるよう、逃れる道をも備えていてくださいます。」(Tコリント10:13)とある通りです。耐えられないような、また、意味のない試練はないのです。そして、試練と同時に逃れる道が備えられています。これは、信仰の訓練なのです。神が生きておられる方であることを体験する時なのです。
善い業のために生きる。これは、良い時も逆境の時も同じように神を信じ、神と共に、神の民としてそれにふさわしく生きるということです。
試練というと、すぐ旧約聖書のヨブが思い起こされます。ヨブは大変な試練にあった人でした。
サタンは、「ヨブが、利益もないのに神を敬うでしょうか」(ヨブ1:9)と、問いかけました。神がヨブに多くの祝福を与えているから神を信頼しているというのです。ヨブは家庭に恵まれ、多くの財産を持つ大富豪だったのです。ヨブは自分で告白していますが、豊かな生活をし、人は皆ヨブを敬い、ヨブの言葉を聞き、これ以上はないほどの祝福を得ていました。(ヨブ29章参照)また、貧しい人々や、正しい裁きを求める人々に対して、善行を行わなかったことはありませんでした。
このサタンの問いかけは、実に人の弱さと本質をついていると思います。人が心に思うのは、自分に利益を与えてくれる存在が大切だという事なのです。これは、自分に益をもたらすか、プラスになるかでさまざまなことを判断するし、また、実際に人は自分の益になることしかしたくないのです。
ヨブは子供たちと財産を奪われるという試練に襲われました。
大打撃です。ヨブは大いに嘆きましたが、「わたしは裸で母の胎を出た。裸でそこに帰ろう。主は与え、主は奪う。主の御名はほめたたえられる」(ヨブ1:21)と、神を非難して罪を犯すことはありませんでした。次にサタンは、神に「手を伸ばして彼の骨と肉に触れてごらんなさい。面と向かってあなたを呪うにちがいありません」(ヨブ2:4)と言いました。
ヨブは、頭のてっぺんから足の裏までひどい皮膚病に犯されてしまい、素焼きのかけらで体中をかきむしらなければなりませんでした。あまりの事に、ヨブの妻は「神を呪って、死ぬ方がましでしょう」というほどだったのです。しかしヨブは、この苦しみの中でも「お前まで愚かなことを言うのか。わたしたちは神から幸福をいただいたのだから、不幸もいただこうではないか」(ヨブ1:10)と答えました。
ヨブは長い間忍耐し、その後、以前にも増した祝福を受け、長寿を全うしました。
ヘブライ書には、神は私たちをご自分の子として扱っておられるので、「いったい、父から鍛えられない子があるでしょうか。もしだれもが受ける鍛錬を受けないとすれば、それこそ、あなたがたは庶子であって、実の子ではありません・・・霊の父はわたしたちの益となるように、ご自分の神聖に預からせる目的でわたしたちを鍛えるのです。」(12:10)。とあり、さらに、「およそ鍛錬というものは、当座は喜ばしいものではなく、悲しいものと思われるのですが、後になるとそれで鍛え上げられた人々に、義という平和に満ちた実を結ばせるのです。」(ヘブライ12:11)とあります。
もう、リオデジャネイロでのオリンピックが終わろうとしています。鍛え抜き、練習を積み重ねてきた選手たちが連日競技を続けています。
すばらしい競技や演技の陰には、毎日どれほどの鍛錬が必要だったかと思います。どれほどつらい訓練があったことでしょう。優勝することはすばらしいことです。表彰台に立って国歌が演奏され、国旗があがる、感動の瞬間です。それは、日々の訓練と、その他の要因がうまく重なって得ることのできた結果だと思います。「オリンピックで重要なことは、勝利することより、むしろ参加することである。人生において重要なことは、成功することではなく、努力すること。」と、1908年、ロンドンの聖公会の司教が説教の中で語りました。過程があって、結果があり、その過程が重要だという意味です。どれだけ努力し、鍛錬したかを評価できたらすばらしいと思います。人は結果だけを評価するのですが、私たちの主イエスはどうでしょうか。人が見ない所を見ておられるのです。私たちも今、競技場で人生というコースを全力で走っています。観覧席には信仰の先輩たち、証人たちが座っています。罪や重荷を持ったままでは走れません。罪は絡みつきます。それを投げ捨てて走るのです。これは自分で捨てなくてはなりません。私たちは、十字架の主を見上げながら走るのです。私たちは、疲れ果てて、衰えることのないように、ゴールするまで十字架を忍ばれた主を見上げながら走ります。主は十字架というひどい試練を耐え抜かれたのです。
 神が前もって備えられた善い業のために私たちは生きるのですが、それは、私たちに与えられた自分のコースを全力で走りぬくことであり、また、またそれは、主の御心である神の愛を表す生き方であることです。
オリンピックで金メダルは一種目一人しか得ることはできません。
しかし、私たちには、「義の栄冠」「栄光の冠」が備えられています。古代オリンピックでは、優勝者に月桂樹の冠が与えられて、称賛されました。しかし、その冠は枯れてしまうのです。
 主イエスを信じ、その善い業のために生かされている者は、「朽ちない冠」が約束されています。(Tコリント9:25)
日々主は共に歩んでくださり、善い業を備え、御心に導かれます。
贖われた者は、主を信頼しきって、どこまでも信仰の歩みを全力で続けるとき、主の豊かな栄光を表す者である自分を見出すでしょう。


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