阪神チャペルセンター
  礼拝メッセージ
 
2016年8月28日
主のあわれみ
ルカ13章10−17節

  主イエスは、私たち一人一人を深く愛し、常に正しい道に導いてくださるお方です。詩編の中でも有名な23編には、「主は御名にふさわしく わたしを正しい道に導かれる」(23:3)とあります。永遠の命に導いてくださるお方です。
 主イエスは、安息日にも人を癒されました。安息日にもというのは、当時、ユダヤの宗教指導者たちは、律法の細則を定めて、安息日のあるべき姿を全く違うものにしてしまったのです。
安息日には火を使うことが禁じられているので、当然食事の支度をしてはなりませんでした。金曜日に準備しておくのです。また、1マイル以上歩いてはいけないので、安息日に旅はできないのです。労働が禁じられているので、投薬や治療も労働とみなされ、病人の治療も安息日にはできませんでした。
ある安息日に、主イエスと弟子たちが麦畑を通られました。その時弟子たちが麦の穂を摘み、手でもんで食べたことがありました。それを見たファリサイ派の人々が、「なぜ、安息日にしてはならないことをあなたたちはするのか」(ルカ6:2)と聞いたのです。この時代でも麦を生のまま食べることはありません。弟子たちは主イエスと共に町々や村々を巡回し、神の国を宣べ伝え、大変に疲れ空腹だったのでしょう。ファリサイ派の人々は、安息日にしてはならない収穫と脱穀という仕事をしたと責めたのです。
安息日とは、6日の間働き、7日目は神に聖別された日として、この世の全てから解放されて礼拝をし、神を賛美し魂に安息が与えられて、身も心も新しい力に満たされる日です。
主イエスは、ファリサイ人に、ダビデが空腹であった時、祭司しか食べてはならない供えのパンを食べ、供の者にも食べさせたという出来事を話され、安息日は人のためにあるものであり、主は安息日の主であると言われました。ダビデがサウル王に追われて逃げ回らなければならなかった時、疲れ果て、空腹でした。神の宮に行くと、祭司はパンを食べさせてくれたのです。神は、祭司しか食べてはならないパンを用いて空腹であったダビデたちを養われました。今、空腹であって、助けが必要な者を助けて下さったのです。神様の憐みと恵みがダビデたちを救ったのです。お腹が満たされただけでなく、この神の憐みがどれほどダビデたちを励ましたかはかり知れません。
福音書には、主イエスが安息日に人を癒された記事が7回でてきます。
ある安息日に、主イエスはシナゴクで教えておられました。主が教えられるのは、許しと癒し、永遠の命です。
この会堂に、18年間も腰がまがったままで、どうしても伸ばすことができない婦人がいたので、主はこの婦人を呼び寄せ、手を置かれて「婦人よ、この病気は治った」と言われました。たちどころにこの婦人の腰は癒され、神を賛美したのです。どんなに嬉しかったでしょう。今日から苦しい思いをしなくてよいのです。体も心も癒されました。
長い間病気で苦しんでいた人が癒され、解放されたら、喜ぶのが当たり前なのですが、素直に喜ばない人々がいました。会堂長とは、ユダヤ人の会堂シナゴクのすべてを管理する人で、高い地位にはありませんでしたが、人々の尊敬を受ける存在でした。主イエスに娘の癒しを願ったヤイロも会堂長であったとあります。(ルカ8:41参照)
ところがこの会堂長は、主イエスの癒しの御業に「腹を立てた」とあります。そして、主に向かってではなく、群衆に向かって、「働くべき日は6日ある。その間に来て治してもらうがよい。安息日はいけない」(13:14)と言ったのです。主イエスは、彼に向って、偽善者たちよ、と言われました。「あなたたちはだれでも、安息日にも牛やろばを飼い葉桶から解いて、水を飲ませに引いていくではないか。この女はアブラハムの娘なのに、18年もの間サタンに縛られていたのだ。安息日であっても、その束縛から解いてやるべきではなかったのか。」(13:15、16)と言われました。反対者たちは恥じ入り、群衆は皆喜んだのです。
 ルカによる福音書には、14章にも水腫を患った人が安息日に癒されたという記事があります。(14:1−6)主イエスは食事に招かれてファリサイ派の人の家に行ったのですが、人々は主の様子をうかがっていたとあります。水腫の人を主の前に座らせ、主イエスがどのように反応するか見ていたのです。水腫とは、体にむくみがでている病気で、ファリサイ人たちは、罪の結果と考えていました。試された主イエスは、ファリサイ人たちに、「安息日に病気を治すことは律法で許されているか、いないか。」と聞かれました。彼らは答えられませんでした。主は病人の手をとり、病気を癒されたのです。主イエスは、「あなたたちの中に、自分の息子か牛が井戸に落ちたら、安息日だからといって、すぐに引き上げてやらない者がいるだろうか。」(ルカ14:5)と言われました。彼らは答えられなかったのです。
しかし、ファリサイ人たちは、主イエスが安息日に禁じられている仕事をしたと考えました。これは彼らにとって許しがたい事でした。安息日の問題が、主を退けなくてはならないという計画が進んでいく要因となりました。
主は憐みに富んだお方です。ご自分が敵対する人々に囲まれて、試されても、なすべきことをなさいました。悪意に囲まれていても、いらだつこともなく、平安で御心を成し遂げられるお方です。また、この世の勢力や権力に屈することもありませんでした。
主イエスは、どのような人も必要のない苦しみの中にあることを望まれないのです。今日救いが必要なのに、それを明日に延ばすことはなさいません。
詩編46編2節に、「神は我らの避けどころ、わたしたちの砦、苦難のとき、必ずそこにいまして助けてくださる」という御言葉があります。
私たちが、苦しむ時、困難な時、病気の時、必ずそこにおられて、助けてくださると言われるのです。必ず助けると言われます。
 主イエスが私たちに注がれるまなざしは、常に温かく、慰めに満ちたものであって、憐みに富んでいるのです。
ユダヤ教は土曜日が安息日です。しかし、クリスチャンは十字架の贖いによって、新約の恵みの時代を迎え、主が十字架に架かり、3日目に甦られた日曜日を記念とし、日曜日に礼拝を捧げるようになりました。
主イエスは安息日の主です。この主の救いにあずかる者は、主の安息にいかされるのです。
私たちもかつては、心の中に不自由を覚えていたものです。心の腰が曲がっていたり、心の水腫を患っていて、苦しみを覚えていてもそれに縛られていてどうすることもできなかったような者でした。しなければならないことはできず、してはならないことはしてしまうということもあります。罪に縛られていたのです。主イエスはそのような状態を良く知っておられ、いつも憐み深いまなざしで私たちをご覧になり、救いの御手を差し伸べてくださったのです。どうしてその手をはねのけることができるでしょうか。
主イエスを心の中にお迎えした時、私たちは救われ、魂と心の安息をいただくことができました。神の国に入れられたのです。イエスの深い憐みにより、そのようにしていただいたのです。
礼拝を捧げることは、主イエス・キリストによって与えられた救いを喜び、感謝し、真の安息にあずかることです。主が私たちのために何をしてくださったかを思いめぐらし、感謝する時でもあります。
常に私たちの必要を満たし、正しい道に導き、良きもので満たして下さる主イエスをさらに見上げて、神の栄光を褒め称えていく者となりましょう。


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