阪神チャペルセンター
  礼拝メッセージ
 
2016年9月4日
答えられる神
使徒言行録17章16−34節

 
パウロは、3回の伝道旅行を行いました。シリアのアンテオケ教会から出発し、小アジアからマケドニアまで福音を伝えて巡り歩きました。
常に激しい迫害を受けましたが、その宣教の熱意は断ち切られることはありませんでした。
ギリシャのアテネには、第2回目の伝道旅行で遣わされました。テサロニケのユダヤ人たちが、パウロをテサロニケやべレアで迫害し、騒ぎを起こしたので、パウロだけ先にベレアからアテネに送り出されました。
パウロは、伝道旅行に同行していたシラスとテモテを待っている間、アテネの町の様子を見たのですが、いたるところに偶像があるので、憤慨しました。憤慨したと訳されている言葉は、深く悲しんだという意味にも訳すことができます。パウロは、真の神ではなく、おびただしい偶像に仕えるアテネの状況を悲しみ、また心に宣教の炎が燃え上がりました。
パウロは、ユダヤ人の会堂ではユダヤ人や神を崇める人々と論じ、広場では居合わせた人々と論じ合っていました。
パウロは、主イエスご自身と、復活を宣べ伝えていたのです。
哲学者たちもパウロとの討論に加わりました。エピクロス派とは、万物は偶然によって生じた。死はあらゆるものの終結。神々は存在するが、人の世界とは遠いかけ離れたところにおられて、人には関心を持っていない。快楽こそ人の最終的な目的といったことを信じていました。また、ストア派とは、ストイックという言葉のもとになった学派で、禁欲的な生活を求めていくという考え方でした。あらゆるものは神の意思であるからなにごとも気にせず、神の意志を受け入れる。感情から解放された状態を魂の安定と考え、人にとって最高の幸福と考えていました。。二つの学派は極端に違った思想を持っていましたが、そのような事を信じている人々でした。宗教ではなく、思想をもっていたのです。彼らは、パウロをアレオパゴスの丘に連れて行き、あなたが説いている新しい教えを聞かせてほしい。奇妙なことを語っているが、どんな意味なのか知りたいと言ったのです。アテネの人々は、新しいことを話したり、聞いたりすることに時を過ごしていたのです。
パウロはアレオパゴスの中央にたって、話し始めました。真の神を伝えたのです。
アテネには、「知られざる神」という祭壇がありました。それで、それを糸口に、「あなたがたが知らずに拝んでいるもの、それをわたしはお知らせしましょう」(使徒8:23)と語り始めました。
パウロは、非常に簡単明瞭に次のように真の神を語りました。
「神は、人が造り出したものではなく、創造主、天地の主である。人の手によって足りないものを補ってもらう必要などないお方である。
神は、全ての人に命と息、その他のすべてのものを与えてくださるお方です。
神は一人の人アダムから民族を造り出し、地上のいたるところに住まわせ、季節を定め、地の境界を定められました。」
パウロは、私たちは神の子孫という言葉を使いました。これは、神によって造られたことを語っているのです。人は神よって造られたので、真の神を求めるのです。
 真の神を、人間が金や銀、石などで作った像とおなじものと考えてはいけないとも語りました。
十戒にも、「あなたには、わたしをおいてほかに神があってはならない・・・あなたはそれらに向かってひれ伏したり、それらに仕えたりしてはならない」(出エジプト20:3、5)とあります。偶像礼拝は、神が忌み嫌われることを忘れてはならないのです。
 しかし、アテネの人々だけでなく、人は偶像を作りだし、拝むことに何の抵抗もありませんでした。
また、太陽や、月、山々などの自然、大木など、神が造られたものを神としてしまいます。日本人も、そのような性質があります。偶像に対して抵抗感がありません。
朝起きたら太陽を拝む人がいます。夜、月や星に願いをかける人もいます。神社仏閣に参拝し、手を合わせます。ご神体が何か知らなくても、拝むのです。2000年前のアテネの人々と変わりません。
神は、モーセに、「あなたたちは、わたしについて、何も造ってはならない。銀の神々も金の神々も造ってはならない」(出エジプト20:23)と言われました。神の像を刻んではならないと命じられたのです。
イザヤ書にも、偶像が空しいものであることが記されています。「袋の金を注ぎ出し、銀を秤(はかり)で量る者は 鋳物師を雇って、神を造らせ これにひれ伏して拝む。彼らはそれを肩に担ぎ、背負って行き 据え付ければそれは立つが そこから動くことはできない。それに助けを求めて叫んでも答えず 悩みから救ってはくれない。」(イザヤ46:6、7)
偶像に助けを求めても答えはありません。
 また、パウロはコリント教会に起こった偶像問題について、明確な答えをだしています。当時、市場には偶像に供えられた肉が売られていました。偶像に供えられた肉を食べてよいか悪いかという事になったわけです。パウロは、「世の中に偶像の神などはなく、また唯一の神以外にいかなる神もいないことを、わたしたちは知っています。現に多くの神々、多くの主がいると思われているように、たとえ天や地に神々と呼ばれるものがいても、わたしたちにとっては、唯一の神、父である神がおられ、万物はこの神から出、わたしたちはこの神へ帰って行くのです。また、唯一の主、イエス・キリストがおられ、万物はこの主によって存在し、わたしたちもこの主によって存在しているのです」(Tコリント8:4−6)と書き送り、刻まれた像には実体がなく、偶像の神などないと宣言しています。唯一の神、唯一の主がおられるだけなのです。
 しかし、サタンは人が偶像を作り、それにひれ伏すことを利用して、人の魂をキリストの救いから遠ざけてしまうことに利用するのだと教えています。だから偶像礼拝を避けるようにと強く諭しました。
「食べるにしろ、飲むにしろ、何をするにしても、すべて神の栄光を現すためにしなさい」(Tコリント10:31)とあるのです。
 主イエスに贖われた者は、人が手で作った偶像を拝み、ひれ伏すことはありません。しかし、心の中に神以上のものを置いたまま、真の神を礼拝することはできません。心の偶像なのです。「貪欲は偶像礼拝にほかならない」(コロサイ3:5)とあります。
ルカ12章には、おろかな金持ちのたとえ話がありますが、主イエスは、この話を、「どんな貪欲にも注意を払い、用心しなさい。有り余るほど物をもっていても、人の命は財産によってどうすることもできないからである」(ルカ12:15)と話し始められています。
世の人は自分でも気が付かず、目に見える偶像、見えない心の偶像に仕えているのが現状ではないでしょうか。偶像は答えることができません。命がないのです。
 先に救われたクリスチャンは、常に聖い御霊を求め、満たされ、生ける真の神との交わりを続けていきます。この神は、答えてくださる神なのです。「聖なる生活を追い求めなさい」と、ヘブライ12章14節にあります。十字架の血潮を仰ぎ、罪の悔い改めをして神に近づき、祈るなら、神は答えてくださるのです。生きておられる神は、私たちを愛し、祈りに耳を傾け、正しい答えと道を備えてくださっています。
アテネでキリストの復活を伝えたパウロの宣教はこの時、あざ笑われたのです。しかし、信じた人も何人かいました。
ギリシャは、キリスト教国になっています。1世紀からの歴史を持つ正教会は、ローマカトリックの別れではなく、自分たちが初代教会の流れと歴史を持つものと考えています。蒔かれた福音は実を結んだのです。
私たちも宣べ伝える時、すぐには目に見えるところがなく、「あざ笑われる」ようなことがあるかもしれません。しかし、神は祈りに答えてくださる方であり、すべての人が救われることが御心です。
キリストを信じ、キリストを伝えるところに御業は必ず進み、現されるのです。

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