阪神チャペルセンター
  礼拝メッセージ
 
2016年9月11日
神のなさること
マタイ20章1−16節

 主イエスは多くの例え話で天の国について教えてくださいました。
イスラエルではぶどうやザクロは祝福の象徴とされていました。多くのぶどう園があり、収穫の時期になると、時を逃がすことができないので、その時だけ季節労働者を雇わなければなりませんでした。当時の労働時間は、朝6時から夕方6時という長いものでした。
ユダヤの市場には、その日誰かが仕事を与えてくれるのを待つ人々が大勢いました。もし、仕事がなければ生活にかかわってくるのです。仕事があるかないかわからない、不安定な生活を毎日しなければならない人々だったのです。
ぶどう園の主人は、夜明けに1日1デナリオンの約束で、労働する人をぶどう園に行かせました。長い一日の労働が始まります。主人が、9時頃行くと、仕事がない人がいました。彼らにも、ぶどう園へ行くように言い、「ふさわしい賃金を支払う」と、約束しました。主人は、12時頃と、3時頃にも出かけて、同じようにしました。さらに5時頃に行くと、立っている人たちがいたので、「なぜ、何もしないで一日中ここに立っているのか」と聞くと、「誰も雇ってくれないからです。」という返事でした。主人は、「あなたたちもぶどう園に行きなさい」と、彼らも送り出しました。
最後の人々は、6時まで1時間だけしか働くことができませんでした。
12時間働いた人、9時間働いた人、6時間働いた人、3時間働いた人、1時間働いた人たちがいたわけです。
夕方、支払いの時になって、主人は不思議な事を言いました。主人は監督に、「労働者たちを呼んで、最後に来た者から始めて、最初に来た者まで順に賃金を払ってやりなさい。」(マタイ20:8)と言ったのです。夕方5時から働いた人は、1デナリオン受け取って帰りました。朝6時から働いた人たちは、自分たちはきっともっとたくさんの賃金をもらえるだろうと期待しました。ところが、彼らの賃金も1デナリオンだったのです。ですから、1デナリオンを受けとった時、主人に「最後の人たちは、1時間しか働きませんでした。私たちは1日中暑さを我慢して働いたのです。1時間しか働かなかった人たちと同じでは不公平です」と、文句を言いました。主人は、「友よ、あなたに不当なことはしていない。あなたはわたしと1デナリオンの約束をしたではないか。自分の分を受け取って帰りなさい。わたしはこの最後の者にも、あなたと同じように支払ってやりたいのだ。」と言いました。主イエスは、このたとえ話を「このように、後にいる者が先になり、先にいる者が後になる」と結ばれました。
主イエスは、この話を通して様々な事を示しておられます。まず、ユダヤ人たちに対してです。ユダヤ人には、自分たちは神に選ばれた民、神の選民であるという自負がありました。異邦人は救われないと軽蔑し、交わることはありませんでした。彼らに、後の者、異邦人が先に神の国に入ると示されたのです。しかし、不平をいう彼らに、主人は「友よ」と呼びかけておられます。友とは、地位や立場が違っても対等に付き合えるものです。決して見放しておられません。ここに神の憐みと愛を覚えることができるのです。
ぶどう園の主人は、労働者を雇う時にそれぞれの契約をしました。
それは、最初の人々には、1日1デナリオン、9時、12時、3時の人には「それにふさわしい賃金」の約束でした。そして、5時の人々には賃金については何も約束していません。ただ、「あなたたちもぶどう園に行きなさい」といっただけです。5時の人たちも主人に何も聞きませんでした。
この例え話は、天の国についての例え話であることを覚えなくてはなりません。天の国とは、神の御支配されるところです。主イエスの十字架の贖いにより、罪赦され、永遠の命を持つ者は天の国の民なのです。救われた者は、天の国の民、国籍を持つものです。
神の民は、神の御心を知り、そのように生きることが求められています。
ぶどう園の主人は、働く者を求めておられます。神は、神の国のために働く者を召し集めて下さいます。ある者は、早く召されて長い時間働くかもしれません。ある者は、遅く召されて短い時間しか働くことができないかもしれません。しかし、神が下さるものは同じなのです。
ここには得をしたとか、損をしたとかいう考え方はありません。報酬をいただくことが目的ではなく、神の御心を求めて働くことが目的となるのです。
地上での生活は、80年、90年かもしれません。もっと短かったり、長かったりするかもしれません。寿命は自分でもわからないのです。その間、様々な労苦や試練があります。丁度暑さの中、ぶどう園で働くようなものと考えることもできます。
1デナリオンは当時の1日の報酬で、それで1日の生活が成り立ちました。私たちは、長期のビジョンが必要です。しかし、主は、そのためには、1日1日精いっぱい頑張りなさいと教えておられます。今日1日しっかりしなくて、どうして長期のビジョンに生きることができるでしょうか。「明日できることは今日しない」といった作家がいました。これは、明日があることを確信していたのだと思いますが、明日はあるかもしれないが、明日自分があるかどうかはわからないのです。ですから、神の御心であるなら、今日という日に成すべきことは成すということが求められるのではないでしょうか。1日1日そうすることの積み重ねが神への奉仕の人生となるのです。
マザー・テレサがローマ・カトリックの聖人に列せられたとのニュースが最近ありました。マザー・テレサは喜んだかどうかわかりません。
彼女は、1910年アルバニアで生まれ、18歳からインドのコルコタでカトリック系の女学校教師として働きます。やがて様々な悲惨な有様に心を痛め、また、神の御心と信じて、貧しく、誰からも愛されず、見捨てられて路上で死を待つ人々のために、「死を待つ人の家」を創設します。人として愛され、看護を受けて召されていくという、最期の時を迎えさせてあげたいという思いでした。また、子供たちのために「子供の家」を作って多くの子供たちを教育し自立させ、送り出しました。彼女は、「平和」を造り出したかったのです。しかし、ノーベル平和賞の受賞をためらう人でもあったのです。「わたしは、助けた人の数を決して数えることはしません。一人、一人、また一人なのです」と語りました。マザー・テレサは、ぶどう園で本当に長い時間、暑さに耐え、忍耐し働いた人だと思います。人にはわからない多くの労苦があったでしょう。彼女は、神に報酬が少ないと言ったでしょうか。決して言いません。聖人に列せられても本人は預かり知らぬことです。これが報いではありません。マザー・テレサは、神の恵みにより長い期間、神の御心を成し遂げられて本当に感謝と、神に感謝しかないのではないでしょうか。
神のために長く働いた者も、最晩年に召されて奉仕した者も、神は尊い者として受け入れてくださるお方です。「友よ」と呼びかけ、「今日一日しっかり頑張りなさい。また明日は明日のこと」と励まして下さるのです。私たちができる事とはいったいどのような事でしょうか。「喜び祝い、主に仕え」(詩編100:2)とあるように、心からの礼拝をささげ、神を喜ぶことです。そして、御心である神の愛を人に伝え、自分を神にささげていくことではないでしょうか。
世の人は、自分は自分のものであり、手にしているものもすべて自分が得たものであると考えます。クリスチャンは、すべては神のものである。神が恵みとして下さり、きちんと管理するようにと任せておられると信じます。命も時間もすべてが神のものであるなら、本当に大切にしなければなりません。すべては恵みによって与えられているのです。
「後にいる者が先になり、先にいる者が後になる」(ルカ20:16)
深いお言葉です。1日1日、ミカ書の「正義を行い、慈しみを愛し、へりくだって神と共に歩むこと、これである」(6:8)という御言葉を思い起こし、イエス・キリストの十字架の謙遜を思い、神の国にある者の幸いを覚え、神のぶどう園での働きを感謝したいものだと思います。


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