阪神チャペルセンター
  礼拝メッセージ
 
2016年9月18日
召天者合同記念礼拝会
なおも望みつつ信じた
ローマ4章18−25節

 今年も先に天に召された兄姉を記念して、神に礼拝をささげる時が備えられたことを感謝します。
 詩編90編には、「人生の年月は70年程の者です。健やかな人が80年を数えても、得るところは労苦と災いにすぎません。瞬く間に時は過ぎ、わたしたちは飛び去ります」(詩90:10)また、「人生はため息のように消えうせます」(90:9)ともあります。
人は、つらい時、苦しい時、ため息をつきますが、人生はそのくらい短くあっと言う間に過ぎ去ると教えているのです。
 厳しい人生であっても、慰めと希望は常にあります。詩編にはまた、「彼がわたしを呼び求めるとき、彼に答え苦難の襲うとき、彼と共にいて助け彼に名誉を与えよう」(詩編91:15)と、常に神は共にいて助けてくださるというすばらしい約束を下さいました。
 神と共に歩む人生は、長くても短くても素晴らしいものです。
さて、今日は、ローマの信徒への手紙4章をご一緒に読ませていただきました。ここに、アブラハムという名前がでています。大変有名な旧約聖書の登場人物です。アブラハムは、ある時神に召されました。召されるという言葉は、人が天国に召されるという意味にも使われますが、本来、神に呼び出されるという意味があります。神様のご計画のためにあなたを特別に呼び出しますという事です。人がイエス・キリストを信じ、受け入れる時、クリスチャンと呼ばれるのですが、クリスチャンとして召されたというように表現します。
アブラハムが何のために召されたのかというと、イスラエル民族の父となるためでした。すでに75歳になっていたのですが、神は、「あなたは生まれ故郷 父の家を離れてわたしが示す地に行きなさい。わたしはあなたを大いなる国民にし、あなたを祝福し、あなたの名を高める 祝福の源となるように。」と、語りかけられたのです。75歳にもなり、ある程度の生活の基盤が築かれ、住んでいる地に愛着もあったでしょう。アブラハムにはそこを出ていく理由はありませんでした。しかも、神はどこへ行くのかさえ教えられませんでした。アブラハムは、神を信じ、行く先を知らずに出かけていったのです。その理由は神を信じたということだけでした。アブラハムには子供がいません。当時の習慣で、後継ぎのない家では、家の召使が主人のすべてを受け継ぐことがありました。アブラハムは神に、「ダマスコのエリエゼル」が後継ぎだと言います。ところが、神は、「その者があなたの跡を継ぐのではなく、あなたから生まれる者が跡を継ぐ。天を仰いで、星を数えることができるなら、数えてみるがよい。あなたの子孫はこのようになる」(創世記15:5)と語られたのです。アブラハムは神を信じました。神は彼の信仰を義と認められたのです。さらに、神は「あなたの子孫を天の星のように、海辺の砂のように増やそう」(創世記22:17)と、重ねて約束されました。
ところが、人はどんどん年を取っていきます。アブラハムもやがて
100歳、妻のサラも90歳になってしまいます。100歳の人間に子供が生まれるのでしょうか。90歳の人がどうして出産できるのでしょうか。ありえない事です。しかし、アブラハムの信仰はなくなりませんでした。希望するすべがない。100パーセント望めないという事態であるのに、なおも望み続けたのです。神が約束されたのだから、希望を持ち続けるという信仰を貫いたのです。
やがて、約束の子イサクが与えられました。神の約束は成就したのです。
神に対する信仰の姿勢について教えられるところです。
真の神はどのようなお方でしょうか。
私たち一人一人をアブラハムのように、召されたお方です。アブラハムだけが義と認められた、すなわち神の前に正しい者と認められたのではなく、「わたしたちのためにも」とある通りなのです。
今、私たちはこの教会に集い、心を合わせて礼拝をささげています。
皆同じところで生まれたわけではありません。さまざまな出身地から、尼崎にあるこの教会に導かれてきました。思えば不思議なことです。神が召されたので、今ここに導かれているのです。
 ローマ書は、「信仰による義認」を主題としているのですが、義認とはどのようなことなのでしょうか。
聖書は、人は生まれながらに罪を持つ者であると教えています。罪とは、いわゆる犯罪という意味だけはなく、心の中の罪を言います。犯罪とは、心の中の悪が現された結果であるといえます。たとえば、誰かを殺したいと思うほど憎んでも、自分の心の中にあるだけならだれも罪とは思わないでしょう。実行に移されてしまった時、犯罪になるのです。悪口を言っても、誰かを罵っても法律で裁かれるまでにはいかないでしょう。いくら自分中心でも警察には捕まりません。しかし、聖書は、それが罪であって、神は心の中の罪を問われ、罪が解決しない限り、神の国に入ることはできない。永遠の命を持つことはできないと教えています。自分中心は自分も人も幸せにすることはできません。
その唯一の解決方法として、神は御子キリストをこの世に遣わされました。主イエスは、全世界の罪を背負われ、その贖いとして十字架に架かられ死んで葬られ、三日目に復活されました。葬られた墓には主はおられませんでした。
主が私の罪の為に十字架に架かり死なれた事、三日目に復活された事を心に信じ、告白するとき、人は義と認められ一切の罪から解放され、永遠の命を持つ者とされるのです。
「イエスは、わたしたちの罪のために死に渡され、わたしたちが義とされるために復活させられたのです」(ローマ4:25)とある通りです。
 使徒パウロは、誰よりも自分が罪深い者であったことを知っていました。イエス・キリストを信じる者を迫害することが神の御心と信じて、大変な勢いで迫害を推し進めていたのです。ステファノが殉教する時も、パウロは石を投げる人の上着を預かったのです。まだサウロと呼ばれていたパウロは、ステファノの殉教に賛成していました。
神の御心を知らず、迷いの道をひたすら進み続けていたのですが、復活の主イエスにお会いし、回心し、召されて伝道者として大きな働きを成し遂げました。大きな方向転換ですが、これが悔い改めです
生き方を変えて、神に従うのです。パウロはそれまでの立派な学歴や家柄、地位などを捨てて、行き先を知らないで神に従った人と言えるでしょう。
人にとって一番大切なものは言うまでもなく命だと思います。地上の命は大切です。生きている限り、有意義で幸せな人生を送らなければなりません。それは、富んでいるとか貧しいとかで量ることではなく、自分の存在によって、他の人を生かすことができるかどうかだと思います。
家族の為に働きます。家族に責任を持ちます。自己中心ではできません。自己犠牲が伴うのです。神は、自分が愛する者のためだけではなく、隣人のために奉仕するようにと教えておられます。さらに、敵でさえ愛するようにと教えているのです。なかなかできる事ではないかもしれません。しかし、十字架の主を仰ぐとき、自分のなすべきことが示され、備えられ、力をいただくことができるのです。
先に天に召された兄姉たちも、行く先を知らないでこの地上の歩みを続けられたでしょう。十字架の主を見上げながら、感謝して神と人に仕え続けられたでしょう。そして、今、永遠の故郷、天に移されて憩いのなかにあることを思うと、私たちも素晴らしい喜びと平安を持つことができます。
梶本 葆兄は、7月25日に86年間の旅路を終えられて、天に帰られました。この地上でお会いできないことは寂しく、悲しいことですが、クリスチャンは永遠の希望が与えられています。キリストが復活されたように、信じる者は復活し、親しい、愛する人々との再会が約束されているのです。私たちはこの地上でしばらく神の導きを信じて進んで行きます。神の栄光のために進みます。それぞれの召しを確信して歩みます。
神にはどのようなことも可能であることを信じ、望みえない事を望みつつ、信仰によって進んで行きましょう。

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