阪神チャペルセンター
  礼拝メッセージ
 
2016年9月25日
聖なる生活の実
ローマ6章22−23節

  主の恵みの中に今日まで守られていることを感謝します。先週は幸いな合同記念礼拝を持つことができ、先に召された兄姉を記念し、その信仰を思い返して、あらためて主を賛美致しました。
墓前祭と、梶本兄の納骨は、大雨が降っていたのですが、無事に行うことができて感謝でした。
また、三浦綾子読書会でも、関西聖会でも、主は私たちにお語り下さり、ご自身への信仰の姿勢を示して下さった事を感謝します。この地上にある私たちは、主イエスを見上げながら信仰の道を進んで行きます。
さて、ローマ書6章20節に、私たちもかつては、「罪の奴隷」であったとあります。これは、罪に縛られ、罪に支配されて滅びに向かって進んでいた状態をあらわします。私たちは、別にだれの奴隷でもなかったと思うかもしれません。良い行いをしてきたと思うかもしれません。しかし、パウロは、「わたしは肉の人であり、罪に売り渡されています。わたしは自分のしていることが分かりません。自分が望むことは実行せず、かえって憎んでいることをするからです。・・・そして、そういうことを行っているのは、もはやわたしではなく、わたしの中に住んでいる罪なのです。」(ローマ7:14、15)と告白しています。罪に支配され麻痺している状態を指しているのです。神はそのような人間に、「あなたたちは聖なる者となりなさい。あなたたちの神、主であるわたしは聖なる者である」(レビ19:2)と言われました。また、「すべての人との平和を、また聖なる生活を追い求めなさい。聖なる生活を抜きにして、だれも主を見ることはできません。」(ヘブライ12:14)とも教えられています。
この「聖なる」という言葉は、「ハギオス」という言葉で、「分離」という意味があります。つまり、罪と分離する。罪と決別する。罪とはなんの関係もない者として、ひたすら神に仕え、神の聖さを追い求めていくということと考えられます。平和と聖さを追い求める姿勢を続けて行くこと。これが神の御心であることを覚えながら、生活していくことが教えられています。平和は、人を大切にする心から現れます。イエス・キリストの愛を表すところから生まれます。
聖なる者となる、聖なる生活をするという事は、いわゆる聖者になりなさいということは違います。世界には聖者と言われる人が多くいます。
一般的に聖者、または聖人というと、人格が高潔で、偉大な事業を成し遂げる、あるいは人々を救済する人と考えられます。普通の人はなかなか聖人にはなれないのです。アフリカ、ガボンで晩年まで医療活動をされたシュバイツァー博士は、「密林の聖者」と呼ばれて、1952年、ノーベル平和賞を受賞しています。
ところが、聖書は、すべてのクリスチャンを「聖なる者」と呼んでいます。罪深い、弱い、すぐに疑って挫折してしまうような者を、聖徒と呼んでいるのです。これはすべてイエス・キリストの十字架の贖いの結果です。御言葉には、「しかし、わたしたちがまだ罪人であったとき、キリストがわたしたちのために死んでくださったことにより、神はわたしたちに対する愛を示されました。それで、今や、わたしたちはキリストの血によって義とされたのです。」(ローマ5:8、9)とあります。聖徒とは、神の前に義と認められた者であり、罪のない正しい者、聖い者と認められた者を指すのです。そのために、何か善い行いをしたわけではありません。善行をしても義と認められることはありません。罪と格闘しても義と認められることはありません。ただ、キリストの十字架の贖いによってのみ、罪が赦されるのです。
出エジプト記によると、エジプトの王ファラオは、人口が増え、力を増してきたヘブライの民を恐れて、強制労働に駆り立てて支配したとあります。ヘブライ人は奴隷状態だったわけです。過酷な重労働にあえぎ、生まれてくる子供たちさえ生きられないような苦しみの中、神はイスラエルのうめきを聞き、御心に留められました。神はモーセを召し、出エジプトを成し遂げ、荒野での40年の訓練の後、乳と蜜の流れる地、カナンへ帰ることができました。本来神の選びの民であり、神の宝の民ともいわれたイスラエルが、エジプトで奴隷になっていたのです。これは、人が罪に支配されていることを示しています。本来支配されてはならないものに支配されている。それに苦しめられてしまうことは解決しなければならない問題です。イエス・キリストは、すべての人を罪から解放するために十字架に架けられたのです。罪に支配されないように、命に生きるようにしてくださいました。
神の奴隷とは、神の御支配の中に、神の命に生きることです。神の国とは、人が死んでから行くところではなく、神の御支配されるところが神の国なのです。神の僕は神の国に属するものです。永遠の命に生きる者です。罪に生きる者の実は何でしょうか。隠されていても覆われているものが取り除かれる時、恥ずかしいものでしかないのです。
キリストにより罪赦され、神の僕とされた者は、「聖なる生活の実」を結ぶとあります。それは、聖徒は聖徒としての結果をもたらすということなのです。「永遠の命」は具体的に目印があるわけではありません。目に見えるものではありません。信仰も目にみえません。
しかし、聖徒の生活の証しが、すべての恵みを表すことができます。聖なる者が持っているものは、「永遠の命、愛、喜び、平和、寛容、慈愛、善意、忠実、柔和、自制」、などなどです。これらが生活の中にあらわされるのです。
9月17日には、三浦綾子読書会がありました。三浦綾子著作の細川ガラシャ夫人を通して、信仰を教えられました。ガラシャは、明智光秀の娘でしたから、光秀が秀吉によって滅ぼされてしまうと、嫁ぎ先の細川家は、秀吉の追及が細川家に及ばないように、ガラシャを丹後の山奥に幽閉してしまいます。ガラシャは、愛する子供たちとも引き離されて孤独な生活をいつまで送るともわからぬまま、また、いつ死罪を宣告されるかもしれない中暮らさなければなりませんでした。その中で信仰者であった侍女からキリストの教えを受けるようになったのです。三浦綾子さんは実によく苦難の意味と解決を書いています。佳代という侍女は、ガラシャに「苦難が恩寵(恵み)と思うことができるように」と祈っていると話します。
人の一生は、苦難の連続であるから、一つ過ぎ去ってもまた、もっと大きな苦難があるかもしれない。苦難の解決は、苦難から逃げることではなく、苦難を神の恵みとして喜べるようになること、それが本当の解決だと教えるのです。苦難が恵みだと喜べる人には、苦難は苦難ではないのです。「喜びの中に苦難は住めない」のです。このような思いが与えられ、苦難が恵みとなるのは聖なる生活の実の一つです。永遠の命からくる平安です。
「罪が支払う報酬は死です。しかし、神の賜物は、わたしたちの主イエス・キリストによる永遠の命なのです」(ローマ6:23)とあります。罪が支払ってくれるものは死でしかありません。滅びしかないのです。神が下さる「賜物」は、イエスキリストの十字架の贖いによっていただける永遠の命なのです。神は賜物としてくださるのです。
私たちは日ごとに十字架によって聖なる者とされた自分を思い、神に属する者であることを誇りにしたいものです。また、悔い改めができる者でありたいです。罪に対して鈍い者でないように心を見張らなければなりません。自分の生活が聖なる実を結ぶものであって、それが本当に神に喜んでいただけるものであるように、常に顧みることが大切なのです。野の花は、だれも気に留めず、高価なユリ、カサブランカのように称賛されないかもしれません。しかし、神の目はどのような者に向けられるのでしょうか。神の前に常に忠実な信仰に歩む者ではないでしょうか。永遠の命を喜び、神がキリストを賜ったことを何よりも喜びとし、キリストの御姿を模範として一歩一歩歩んでいく姿勢を喜んでくださるのです。神が私たちに恵みとしてくださったものはたくさんあります。神の愛、許し、癒し、永遠に変わることのない約束、決して失望に終わらない希望、数え切れない恵みを心に覚えて、聖なる者として信仰を全うしていきましょう。

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