阪神チャペルセンター
  礼拝メッセージ
 
2016年10月2日
祈る時には
マタイ6章9−13節

  主イエスは良く祈られたお方です。ルカによる福音書によると、主イエスが祈り終えると、ある弟子が、「主よ、わたしたちにも祈りを教えてください」と願ったとあります。また、マタイの記録では、祈りについて教えられた後、だから、こう祈りなさいと祈りを教えておられます。
主イエスは、「偽善者のようであってはならない」と言われました。偽善者とは、表面と内側が全く違う人の事です。主イエスがいわれる偽善者とは、ファリサイ派や、律法学者を指しましたが、彼らのようであってはならないと教えられたのです。主イエスは、自分の前でラッパを吹きならしてはならないとも言われました。これは、自分が良い行いをしている、立派なお祈りをしていると、人前で宣伝することです。
自分がどんなに立派な人間であるかを人々に示す行いです。その行いがどんなものであれ、その動機が自分を良く見せかけるためのものならば、偽善であるといえるのです。人は、人に認められたい、自分が素晴らしい人間であるかを称賛されたいという思いがあるものなのですが、主イエスは「右の手のすることを左の手に知らせてはならない」(マタイ6:3)と、言われました。主イエスは、人に褒め称えられることを目的にし、人からの賞賛を受けるなら、既に報いを受けてしまっている。それ以外の報いを天に期待することはできないとはっきりいわれました。
天の父は、隠れたことを見ておられる父なのです。私たちは、人の賞賛よりも天の父の報いを受ける者でありたいのです。
主イエスは、祈りにおいても偽善者のようであってはならないと言われました。人に見てもらうためではなく、隠れたところで隠れたところにおられる神に祈りなさいと教えられました。また、くどくどと祈るのではなく、願う前から必要をご存知である父なる神に信仰をもって祈るようにと教えてくださいました。天の父は、「願う前から、あなたがたに必要なものをご存知なのだ」(マタイ6:8)とあるのです。
天の父は、私たちを愛し、その必要を完全に知り、備えてくださるお方です。
「わたしたちすべてのために、その御子をさえ惜しまず死に渡された方は、御子と一緒にすべてのものをわたしたちに賜らないはずがありましょうか」(ローマ8:32)。私たちすべての者のために御子を世に遣わされ、罪の贖いとして十字架に架けてくださった神は、すべてのものを下さるお方なのです。
主イエスは、「だから、こう祈りなさい」(マタイ6:9)と、祈りを教えてくださいました。クリスチャンは、誰でも主の祈りを知っています。救われてから一体何回祈ったでしょうか。数えきれないほど祈ったのではないでしょうか。しかし、注意しなければならないのは、大切な祈りであるにも関わらず、ただ言葉を並べているだけになってはいないだろうかという事です。主イエスが教えられたことを理解し、心から祈りをささげているかということです
主の祈りは、その内容を二つに分けることができます。9節と10節には、まず神に対する祈りが教えられています。御名が崇められますように。御国が来ますように。御心が行われますようにといったように、神に関する祈りが最初にあるのです。私たちは祈る時、自分の求めるところを先に祈る場合が多いのですが、主イエスは、まず神に対する祈りを教えておられるのです。
主イエスは、「何よりもまず、神の国と神の義を求めなさい。そうすれば、これらのものはみな加えて与えられる。」(マタイ6:33)と言われました。
自分の必要にばかり心を向けてしまい、最初に神ご自身と御心を求めることを忘れているようなことがあってはならないのです。
最初に、「天の父よ」とあります。「天の」という言葉は、「聖なる」という意味があります。これは、先週も触れましたが、「聖別」という意味です。聖別とは、汚れ、罪から分離するという事です。天の父よ、とお呼びするのは、あなたは、聖なる、正しい、罪も汚れもないお方ですと信じ、告白することです。聖なる唯一の真の神、聖い、正しい神を告白する祈りなのです。
@ 神の御名が崇められるようにとは、何を意味するのでしょうか。神の御名とは、神ご自身を指します。これは、すべてに神に栄光をお返しするという事です。栄光は神にあるという事です。私たちが生きていることも、元気で生活できることも、すべてに守られていることも、見えない神の御手に支えられ、守られているのです。すべての事柄の中に神がおられることを忘れてはなりません。「主の御計らいを何ひとつ忘れてはならない」(詩103:2)とあるように、生活のすべてに神の御手があることを知って、絶対的に信頼を置き、その御手に委ねることを学ばなければなりません。あなたの御名を崇めますと、神に栄光をお返しするのです。神を崇めながら、神を第一とせず、自分やあるいは何か他のものを第一にすることはできないはずなのです。
A 御国がきますように。御国とは、神の支配されるところを示します。それが天上であっても、地上であっても、神が御支配されるところは御国なのです。御国が来ますようにとは、私たちの内に御国が来ますように、私たちの生活が、神の御心に支配された日々でありますようにという祈りなのです。
人は罪を持ち、それが心の中心にあると、聖い御霊を消してしまい、自分中心の生活になってしまいます。そのような信仰の姿勢を悔い改めながら祈る祈りであると思います。罪の僕から義の僕に変えられた者は、御国にあることを喜びとする者なのです。
クリスチャンは神の国の民ですが、この神の国はどのようにして拡大していくのでしょうか。それは、先に救われた者が、福音を伝えていくという方法しかありません。救われた者は、神の救いと憐み、祈りによってすべてに勝利していくことを体験として知っています。キリストの贖いにより、罪赦され永遠の命を持つことができました。しかし、まだまだ救いを必要としている人々が周囲にたくさんいるのです。その人たちは、あなたの「イエス様は救い主です」という一言で救われるのです。イエス・キリストを信じる以外に救いはありません。勇気をもって、福音を伝えたいのです。
B 御心が天で行われるように、地でも行われますようにという祈りについて考えてみたいと思います。クリスチャンにとって最も大切なことの一つは、神の御心を求めることです。自分の思いが成るのではなく、神の御心がこの地に成されるようにという祈りが大切なのです。主イエスはゲッセマネの園で、十字架という苦い杯を取り除いてくださいと祈られました。しかし、「父よ、できることなら、この杯をわたしから過ぎ去らせてください。しかし、わたしの願いどおりではなく、御心のままに」(マタイ26:39)と祈られたのです。あなたの御心をなして下さいと願われました。そして十字架の救いが成し遂げられました。
神は、私たち一人一人にご自身のご計画をもっておられます。それが成就されますようにと祈るのです。
この世は罪で満ちています。自分の利益しか考えられない世の中です。ですから、クリスチャンは聖い御心がなるようにと祈るのです。この世に神の御支配が及びますようにと祈るのです。
  信仰と謙遜な心をもって、家庭でも主の祈りを祈りましょう。未信者の家族にもこの主の祈りを教えましょう。聖霊が心に働きかけてくださいます。どう祈ったらよいかわからない時にも、心から主の祈りをささげましょう。主の平安と確信に満たされます。
家庭に、教会に、地域に、職場にこの世の全てに神の御支配が及び、神の御心が成されますようにと信じる祈りは必ず答えらます。神の栄光が表されることを待ち望みましょう。


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