阪神チャペルセンター
  礼拝メッセージ
 
2016年10月9日
主の祈り
マタイ6章9−13節

 マタイによる福音書の5章から7章は、山上の教えといわれる、主イエスの教えが記されています。主イエスは山に登られ、腰を下ろされて弟子たちに教えられました。この山上の教えは、主イエスが伝えたいことの中心をまとめられたと考えることができます。ですからこの教えを読むと、主の御心が良くわかり、どのように信じ従うのかがわかるのです。その中に主の祈りが示されています。「だから、こう祈りなさい」と、祈りを教えてくださいました。
先週は、主の祈りの前半、天の父に関する祈りについて学びました。今日は、後半、人に関する祈りについて考えてみたいと思います。
神は、私たちの必要をご存じであり、必ず満たして下さるお方です。
まず父なる神を崇め、神の御支配が地にあるように、御心が成されるようにと祈った時、神の内にある自分を見出し、平安に満たされます。
永遠の命の平安です。
 主イエスは、また、私たちの生活のための祈りを教えてくださいました。「わたしたちに必要な糧を、今日与えてください。わたしたちの負い目を赦してください。わたしたちも自分に負い目のある人を赦しましたように。わたしたちを誘惑に遭わせず、悪い者から救ってください」(マタイ6:11−13)とあります。
 主イエスは、まず「今日の糧を与えてください」と祈るように教えてくださいました。今日の糧です。この祈りをする時、私たちは明日の事は思い煩う必要はないことを覚えなくてはなりません。私たちは食事のたびに感謝の祈りを捧げますが、それは天の父が私たちの体を祝福し、健康が整えられるために食物を下さっているに感謝をささげるのです。
また、主イエスはご自分の事を、「わたしがいのちのパンである」(ヨハネ6:35、48)と言われました。このいのちのパンと言われた言葉は、ギリシャ語ではアルトンという言葉です。そして、主の祈りの、今日の糧を与えてくださいという、糧という言葉も、同じアルトンという言葉なのです。「きょうも肉の糧と、魂の糧を与えて下さい」という祈りなのです。人が体を維持するためには、食物が欠かせません。それ以上に魂が養われるためには毎日命の糧、神の御言葉が必要なのです。私たちは、朝昼夕と、三回食事をしますが、一度に全部を食べることはできません。よく食べだめとか、寝だめとか言いますが、一週間分を今日一日で食べることはできません。日ごとに与えていただくことを祈り、願い、満たされるのです。これは信仰によるのです。きょう与えてくださる父は、また明日は明日の必要を備えてくださるという信仰です。クリスチャンの信仰は、神を絶対的に信頼して生きるという事なのです。
マタイ6:12の御言葉は、私たちの信仰の姿勢について問われる御言葉かもしれません。「わたしたちの負い目を赦してください。」これは普通に祈る祈りのように思われます。負い目とは、罪と考えることができます。罪とは、支払うことのできない負債なのです。主イエスは、「もし人の過ちを赦すなら、あなたがたの天の父もあなたがたの過ちをお赦しになる。しかし、もし人を赦さないなら、あなたがたの過ちをお赦しにならない」(マタイ6:14、15)と教えられました。ここでは過ちという言葉が使われていますが、負い目も過ちも罪と考えられます。聖書は、罪について、的外れとか、踏み外すとか、超えてはいけない線を越えてしまうというように教えています。
神に赦されることと、人を赦すことは別々のことではなく、密着していることを覚えなくてはなりません。イザヤ書44章22節には、「わたしはあなたの背きを雲のように 罪を霧のように吹き払った。わたしに立ち帰れ、わたしはあなたを贖った」とあります。罪深い者の罪を贖い、しかもその罪も背きも、雲のように、霧のように吹き払ったとあるのです。父なる神はその御子イエス・キリストを世に遣わされました。十字架の贖いを成し遂げられて、罪を雲のように霧のように吹き払い、忘れ去られるのです。もう思い起こさないと言われるのです。わたしたちはどうでしょうか。もし人が私たちに害を与えたり、中傷したら、心の傷となっていつまでも残るのではないでしょうか。過去に体験したことがいつまでも心から消えないで、事あるごとに甦ってくることがあります。トラウマという言葉も良く聞きます。トラウマとは、心の深い傷と考えることができます。その人にとって、恐怖の体験とか、親しい人との別れとか、大きな苦しみの体験をした時、それが心の傷となっていつまでも残り、時としてそれが蘇ってきてしまうということがあります。フラッシュバックというそうです。人は心に傷を受けやすいものです。
いつも恐れを抱いているなら、生きていくのがつらくなってしまうのではないでしょうか。自分で心をコントロールできないで苦しむのもつらいことではないでしょうか。忘れた方がよいことを忘れることができることは幸いです。主イエスは心と体を癒して下さるお方です。
人を恨んだり、裁いても良い結果はありません。主イエスは赦すなら、あなたも神に赦され、解放されると言われるのです。
主イエスは、「あなたが祭壇に供え物を捧げようとし、兄弟が自分に反感を持っているのをそこで思い出したなら、その供え物を祭壇の前に置き、まず行って兄弟と仲直りをし、それから帰って来て、供え物を捧げなさい」(マタイ5:23、24)と教えられました。神の前に自分自身を神に喜ばれる生きた聖なる供え物として献げることが、礼拝であるなら、神の臨在の前に出る時、まず成すべきことがあると示されています。人との和解です。自分が誰かに対して苦い思いを持つ時、悔い改めるのは良くあることです。「悪かった」と謝ることができます。しかし、相手が自分に対して恨みを持っていることを察知するのは、少し難しいかもしれません。しかし、聖霊は私たちの心の目を開き、なすべきことを教えてくださる方です。先に赦すことを知っている人は幸いです。神に赦されるからです。
また、「わたしたちを誘惑に遭わせず、悪い者から救ってください」(マタイ6:13)とあります。人は誘惑されやすのです。創世記39章には、エジプトに売られたヨセフが、ポテファルというエジプトの役人の家の奴隷として働くことになったとあります。主がヨセフと共におられるので、ヨセフの働きは祝福されました。そのうちにこの家の財産管理まですべてまかされるようになりました。この家はヨセフのゆえに大いに祝福されました。ところが、ポテファルの妻はヨセフを誘惑したのです。ヨセフは、「わたしは、どうしてそのような悪を働いて、神に罪を犯すことができましょうか」と言って誘いに乗るようなことはありませんでした。誘惑に打ち勝ったのです。ポテファルの妻は誘惑に失敗すると、ヨセフに罪を着せ、投獄させてしまいました。しかし、獄中にあっても、神が共におられたので、看守長は獄屋のことをすべてヨセフにまかせるようになりました。やがて、ファラオの夢の意味を解き、エジプトを飢饉から救い、これ以上ないほどの権力を与えられるようになりました。
 神が共におられることを知っている者は、常に神を覚えて生活します。目覚めている状態です。私たちは、魂がいつの間にか眠ってしまい、主イエスから目を離してしまうような誘惑があるかもしれません。
心をしっかり見張らなければなりません。真剣に「悪より救いいだしたまえ」と祈る必要があるのです。
 常に聖霊に満たされ、主イエスの臨在を覚える者でありたいのです。主が共におられることを常に信じているなら、それにふさわしく信仰の確信をもって生活していくことでしょう。主の祈りは、「天におられるわたしたちの父よ」と祈ります。わたしたちの父なのです。主イエスに贖われた者すべての父であることを崇めます。完璧な祈りを教えられていることを感謝し、心から祈る者となりましょう。


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