阪神チャペルセンター
  礼拝メッセージ
 
2016年10月16日
神の力
列王記下4章1−7節

  預言者であるエリシャは、エリヤの後継者としてBC9世紀に北王国イスラエルで活躍しました。列王記下4章には、表題にエリシャの奇跡とあるように、4つの奇跡が記録されています。
預言者の仲間の妻が、エリシャのところに助けを求めに来て叫びました。普通に話したのではなく、叫びました。どれだけ問題が切迫していたかがわかる箇所です。主人が亡くなり、負債が重なり、債権者がやってきて、負債が払えなければ、二人の子供を連れて行き、奴隷として売り払うと言っているという事でした。母親としては耐えられない大きな問題です。
この女性は、「ご存知のようにあなたの僕は主を畏れ敬う人でした。ところが・・・」と訴えたのです。この言葉には、神に対して敬虔な者がなぜこのように苦しむのかといった思いが見えます。これは、私たちにも通じるようなところではないかと思います。神を信じ従うのに、なぜこのような苦しみに遭うのかといった思いです。彼女は生活にも困り、子供を失うことになりそうな状況です。行き詰った状態です。そのような中、エリシャの許にやってきたのです。
エリシャは、「何をしてあげられるだろうか。あなたの家に何があるのか言いなさい」と言いました。困窮している家には油の壺が一つあり、それ以外は何もありませんでした。油が壺一杯にあるのではありません。少量の油が残っているだけでした。エリシャは不思議なことを言いました。近所から器をできるだけたくさん借りて来て、家に帰ったら、「戸を閉めて子供たちと一緒に閉じこもり、その器すべてに油を注ぎなさい」と指示しました。次々に油を満たしていくのです。彼女はエリシャが言ったとおりにしました。器がどれもいっぱいになり、もっと器を持ってくるようにと言ったとき、子供は「器はもうありません」と言ったのです。器が無くなった時、油は止まりました。奇跡がおきたのです。エリシャは、「その油を売りに行き、負債を払いなさい。あなたと子供たちはその残りで生活していくことができる」と語りました。神の御業により問題は解決したのです。
エリシャが活躍したのは、今から3000年も前の北イスラエル王国においてです。この時働き、助けてくださった神は、今私たちが信じ、従う同じ神です。
私たちが苦難に遭い苦しむ時、誰に求めるかを知っていなければなりません。「苦難の中から主を呼び求め わたしの神に向かって叫ぶと 
その声は神殿に響き 叫びは御前に至り、御耳に届く」(詩編18:7)とあるように、生きておられる唯一の真の神に叫ぶ時、神にその叫びは届くのです。助けることのできないものに叫ぶのではなく、生きておられる奇跡をおこされる全能の神に求めるのです。この女性にとって、エリシャを通して働かれる神の許に来ることができたのが解決の糸口でした。負債を返すだけではなく、これからの生活のめどもたったのです。
 この中から私たちは、信仰について考えなければなりません。信仰は真の神を絶対的に信じ、その御言葉に応答していくことです。御言葉を聞いても、信じることなく、従うこともなければ何も起こりません。もし、この女性が少量の油を器に注いでも何の助けになるかと頑なに思って、器を集めることなくそのままにしていたなら、破滅を迎えたでしょう。お言葉ですからと従う時、奇跡はおこるのです。ヤコブの手紙に厳しい御言葉があります。「あなたは『神は唯一だ』と信じている。結構なことだ。悪霊どももそう信じて、おののいています。」(ヤコブ2:19)サタンは、全知全能の神を信じて、震えおののいている。しかし、従わないばかりか、人に隙があれば神の救いと栄光から引き離そうと働く存在です。主イエスは、御言葉を聞いて従わなければ土台のない家のようなものであって、雨が降り、川があふれ、風が吹いてその家に襲い掛かると耐えきれずに倒れ、しかもその倒れ方は酷いと教えておられるのです。山上の教えは主イエスの教えの中心をまとめたものですが、その締めくくりは御言葉を聞いて行いなさいという事です。しっかり心に留めなくてはなりません。
 エリシャの指示は、家に帰ったら戸を閉じて子供たちと一緒に器のすべてに油を注ぐようにというものでした。この女性一人でする働きではありませんでした。戸を閉じ、神の臨在の中で、子供たちと共に神の栄光にあずかるのです。子供と共に神を体験するのです。子供が神の恵みの中にいるということは、これ以上ないほど大切なことです。
大人が日曜日に教会で礼拝をささげる姿勢を示すことは、大きな信仰の証しです。子供が小さければ小さいほど大切なのです。語られる御言葉を理解することは難しいかもしれません。しかし、両親や他の人々が心から礼拝する姿を見て、神に対する敬虔さが、また信仰が育つのです。子供も大人と一緒に神の前にでて、恵みにあずかる必要があるのです。親である者は子供に何を残すことができるでしょうか。何を目的として教育し、育てるのでしょうか。子供が自立して生きていくことができるようになるというのが主な目的だと思います。クリスチャンは、自立のみではなく、神と人を愛し、神と人に仕え、神の栄光を表す者となるようにと祈り養い育てるのです。幼い時に受けた恵みは生涯残ります。
主の救いと永遠の命をいただかなければなりません。
また、油は器のある限り注がれました。器が無くなった時、油は止まったのです。器がもっとあれば油は注がれ続けたでしょう。
私たちは器を大きくしたいのです。小さな器には、少ししか入りません。神様は、これはおできにはならないだろうと思うのは、自分の器で神様を量っていることになります。神様は小さな神様ではありません。天地を造られた神であり、すべてを支配しておられるお方なのです。できないことはありません。どのような問題にも答えをくださるお方です。
憐みに富み、この女性が負債を返し、さらに生活ができるように整えてくださいました。
 聖書が教える負債とは、罪であり、私たちが返さなければならないものと考えることができます。罪の負債は、主イエスの十字架の犠牲で完全に支払われました。罪の負債はないのです。しかし、返済しなければならないものがあります。ローマ書1章14節に、「わたしは、ギリシャ人にも未開の人にも、知恵のある人にもない人にも、果たすべき責任があります」と記されています。ここでいう「果たすべき責任」というのは、支払わなければならない負債という意味です。私たちには負債があるのです。それは愛の負債であり、福音の負債といえるでしょう。負債とは、返さなければならないものです。福音を伝えることに責任をもたなくてはなりません。
 生活の中の様々な困窮が解決されることによって、神の愛が分かります。しかし、もしそれだけで終わってしまうのなら、根本的な救いはありません。あの女性は負債を免れ、生活も支えられて、その後どうしたのでしょうか。神がどんなに憐みに富んだお方か、どのようにして、エリシャを通して不思議なことをなされたか、子供たちとともに体験したことを必ず語り伝えたに違いありません。神に栄光をお返しするのです。
神様は私たちの生活の中でも、毎日奇跡を行ってくださいます。生きておられる神様を体験させてくださるのです。すべてが恵みであることを教えてくださいます。
神様の素晴らしさと救いを体験したなら、愛の負債、福音の負債をコツコツと返していきましょう。私たちの周囲には、救われなければならない人々が大勢いるのです。人の業ではなく、神の不思議な御業で人は救われます。
「言葉、行動、愛、信仰、純潔の点で、信じる人々の模範となりなさい」(Tテモテ4:12)という御言葉の勧めの通り、このようにしていくことによって愛の負債は返済し続けられるのです。神は何でもおできになるお方です。神ご自身とその御力を心から信じましょう。


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