阪神チャペルセンター
  礼拝メッセージ
 
2016年10月23日
計り知れない神の愛
ルカ15章25−32節

 ルカ15章は、福音書の中で大変有名な箇所です。主イエスによる3つのたとえ話で、失われたものが見つかった時の大きな喜びが教えられています。
その中の1つで、「放蕩息子のたとえ話」といわれているのが今日のテキストです。
ある裕福な人に、2人の息子がいました。ある時弟息子が父親に、「財産分けをしてほしい」と言い出し、それを許すと遠くへ旅立ちました。そして、そこで放蕩の果てに財産を全部使い果たしてしまうことになりました。間の悪いことにひどい飢饉になり、食べるにも事欠き、イスラエル人が通常することはない豚の番をすることになってしまいました。     当時のイスラエルでは、長男は財産の3分の2を受け継ぎ、次男は3分の1を受けることが決まっていました。通常父親が亡くなってから相続はするものですが、生前であっても財産分けをすることはありました。しかし、弟息子の言葉には冷ややかなものがあります。「あなたが死んだ時、私がもらえるものを今ください」と言ったのです。父は、この息子と議論をしませんでした。この息子が遠くへ行って、この財産で自立し、立派に生きていくとは思わなかったでしょう。堕落と自滅は目に見えていたのです。それでも息子の言い分を通したのはなぜだったのでしょう。
やがて息子は全財産を使い果たし、豚の番をしながら、豚の餌さえ食べたいほどに飢えていましたが、食物をくれる人は誰もいませんでした。その時彼は、「我に返った」のです。それは、本心に立ち返ったという事で、本当の自分の姿に気がつくという体験をしたのです。父親と自分の家の事を思い出し、どんなに自分が罪深いかに気付きました。「お父さん、わたしは天に対しても、またお父さんに対しても罪を犯しました。もう息子と呼ばれる資格はありません。雇い人の一人にしてください。」(ルカ15:18、19)こう言って謝り、雇い人として受け入れてもらおうと思ったのです。遠い道を帰って行きました。行く時はたくさんのお金を持ち、足取りも軽く、楽しい事ばかり考えて出かけたでしょう。これからは何ものにも束縛されず、好きな事だけできるという自分勝手な喜びで満たされていました。しかし、帰りは空腹を抱え、貧しい服を着てはだしで帰ったのです。父は酷い息子である自分を許して、受け入れてくれるだろうかという心配があったのです。
しかし、父親は遠くから我が子を認め、憐れに思い、駆け寄って抱きしめ接吻して受け入れました。僕たちに一番良い服を持ってこさせ、指輪をはめ、履物を履かせるようにと命じました。指輪は印鑑の役割があり、物事を承認するしるしであり、服は栄誉を表し、履物は奴隷ではなく子であることを表しました。我が子として完全に受け入れたのです。
さらに、祝宴が始まりました。そこへ兄が帰ってきました。畑で一日中働いて家に帰ってくると、中から音楽や踊りのざわめきが聞こえてきたので、何が起こったのかと、僕の一人に聞いたのです。弟が帰ってきたので、父親が喜んで祝宴を開いたことがわかると、怒って家に入ろうとしませんでした。父親がなだめたのですが、「わたしは何年もお父さんに仕えています。言いつけに背いたことは一度もありません」と言い始めました。弟息子は自分勝手に家を出て遊びまわり、やがて行き詰って戻ってきた。誰が考えても罪深いことがわかります。兄はお父さんに仕えてまじめに仕事をしてきた。しかし、神の目からはどちらも罪を持つ人なのです。弟は罪が表に現れた生活をしたのです、兄は心に罪があるという事なのです。
兄はどこに問題があったのでしょうか。愛が分からない事です。父親の愛がどれほど深いかまったく知りませんでした。あるいは関心がなかったとも考えることができます。弟が帰ってきて不平不満をお父さんに言った時、「子よ、お前はいつもわたしと一緒にいる。わたしのものは全部お前のものだ。だが、お前の弟は死んでいたのに生き返った。いなくなっていたのに見つかったのだ。祝宴を開いて楽しみ喜ぶのは当たり前ではないか」(ルカ15:31、32)と心情を吐露したお父さんの愛がわかりませんでした。また、長年父親に仕えてきたのは、愛からではなく義務的であったことも分かっていませんでした。自分の姿を見失っていたのです。また、お父さんの言いつけに背いたことは一度もないとも言っています。自分がどれほど正しい人間であるかを訴えていますが、自分で自分を義とすることはできません。兄も我に返る必要があったのです。
 ルカ15章1節を読みますと、「徴税人や罪人が皆、話を聞こうとしてイエスに近寄ってきた。すると、ファリサイ派の人々や律法学者たちは、『この人は罪人たちを迎えて、食事まで一緒にしている』」と、不平を言ったとあります。そこで、主イエスは3つのたとえ話をなさいました。見失った者が見いだされると大きな喜びがあり、それと同じように、一人の罪人が悔い改めるなら、天に大きな喜びがあると教えられました。
主イエスは、自分の事を義人としている人々に向けて話しておられるのです。兄は、罪を持つ自分の姿を認めて悔い改め、父親の愛を悟らなければなりません。そして、妬みや悪意や、他の人を罪人として裁く思いから解放されて、喜ぶ者と共に喜ぶという心を取り戻す必要があります。
兄の姿を象徴的にイスラエルと考える時に、イスラエルは神の選びの民として、神は常に共におられました。父が、「子よ、お前はいつもわたしと一緒にいる。わたしのものは全部お前のものだ」と言ったように、
イスラエルはいつでも神の近くにいたはずでした。ところが、いつしか心が神から離れてしまい、御心が分からなくなってしまったのです。神の時が満ちて、約束のメシアが来られた。この方によって全世界が救われる恵みの時がやってきたにも関わらず、メシアを受け入れることがないばかりか、この方を十字架に架けてしまうということになってしまっ
たのです。弟息子が財産をもらって家を出たいと言った時、父はあえて反対をしませんでした。止めることもなかったようです。
人が何かで失敗する時、不可抗力ということもありますが、自分の判断ミスや欲のためという事があります。自分の責任が大きいのです。
そして、止められると余計に自己主張するという性質があります。罪の心です。しなくてはならないことはしたくない。してはいけないことはしてしまうという心です。行き詰ってしまってから、その責任を神に擦り付けるようなことがあるのです。自分の失敗なのに、神が止められなかったと言うのです。なぜ、神が先に止めてくれなかったかという事です。これこそ罪の心なのです。
 神は、私たちに自由な意思を下さいました。知性も理性も自制力も下さっています。何をどう選択するかという自由をくださっています。これは神のすばらしい愛なのです。意思をもたない機械ではありません。
だからこそ、日々神の御心を求め、正しい選択をする必要があるのです。自由には責任が伴います。
 神は人に平等に1日24時間くださいました。それをどのように使うのか委ねられています。自分の楽しみや世の中の事に使うことも自由です。神のために、あるいは人のために使うことも自由です。
 私たちはまず。自分自身のありのままの姿を知らなければなりません。
それは罪のある人間の姿かもしれません。兄息子のようか、あるいは弟息子のようか、いずれにしても罪を持たない人間はいないのです。
そして、罪を認めたとき、神に立ち返り、主イエスの十字架の贖いがどれほどありがたいことなのかがわかるのです。
神はいつでも私たちを待ち、受け入れ、許し、自由にし、心に平安を満たしてくださいます。
計り知れない神の愛を受け入れる者となりましょう。
「キリストの愛の広さ、長さ、高さ、深さがどれほどであるかを理解し、人の知識をはるかに超えるこの愛を知るようになり・・」エフェソ3:18、19




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