阪神チャペルセンター
  礼拝メッセージ
 
2016年11月13日
あなたの量り
マタイ26章6−13節

 べタニア村は、エルサレム近郊の村で、マルタ、マリア、ラザロが住んでいた村です。主イエスはエルサレムに来られるとき、このべタニアに滞在されました。主イエスにとってべタニアは心休まる場所であったと考えられます
主イエスは、この村に住む、重い皮膚病を患っていたシモンという人の家に招かれ、食事の席についていました。
重い皮膚病にかかった人は、聖書に度々出てきますが、汚れた者として隔離され、村の中では生活できなかったのですが、このシモンは村で家に住んでいたことから、主イエスによって癒された体験をしていたと考えられます。一緒に食事をすることから、かねてより主イエスと親しい交わりをしていたと考えられます。
その席に、一人の女性がやってきて、主イエスの頭に高価な香油を注ぎかけました。ナルドの香油と呼ばれ、非常に高価で300デナリの価値がある香油でした。
弟子たちはこれを見て、「なぜ、こんな無駄遣いをするのか。高く売って、貧しい人々に施すことができたのに」(マタイ26:8、9)と非常に怒って言いました。300デナリと言えば、300日分の所得に当たります。この香油には、1日1万円と考えると、300万円に相当する価値がありました。しかし、主は、「なぜ、この人を困らせるのか。わたしに良いことをしてくれたのだ。貧しい人々はいつもあなたがたと一緒にいるが、わたしはいつも一緒にいるわけではない。この人はわたしの体に香油を注いで、わたしを葬る準備をしてくれた。はっきり言っておく。世界中どこでも、この福音が宣べ伝えられる所では、この人のしたことも記念として語り伝えられるだろう。」
(マタイ26:10−12)と言われたのです。
この出来事がいつのことかというと、この二日後は過越祭とあります。(マタイ26:2)17節からは、過越祭の第一日目の最後の食事の記録が始まります。この最後の食事の日は木曜日でした。この夜、主イエスはゲッセマネで逮捕され、大祭司カヤファの元で裁判を受け、ピラトの元へ連れて行かれ、十字架刑の判決を受けたのです。主イエスは、金曜日の午後3時に十字架上で息を引き取られたとあります。そして、アリマタヤのヨセフという人が提供した新しい墓に葬られ、三日目の日曜日の朝復活されたのです。このように見ていくと、十字架の週の水曜日に、べタニアでの香油注ぎがあったのです。
この時代の埋葬は、死者に香油を塗り、亜麻布にくるんで横穴式の墓に安置するという方法でした。墓には大きな石で蓋をしました。
主イエスに香油を注いだ女性は、この三日後に主が十字架で死なれるなどとは想像もしていなかったことでしょう。しかし、まだだれも予測していなかったのですが、事態は切迫していたのです。
この日、もう一つの大きな動きがありました。イスカリオテのユダは主イエスを裏切る決心をし、祭司長の元へ行き、銀貨30枚という報酬で主イエスを売り渡しました。
かぐわしい香油の香りの中で、裏切りの決心をするユダの心境はどのようなものだったのでしょうか。銀貨30枚とは、奴隷一人の値段でした。
主イエスを奴隷一人分の値段で売ってしまいました。ユダの悲劇の始まりです。
さて、香油を注いだという十字架の直前の出来事の中に、主イエスに対する愛の実践の姿を見ることができます。
ナルドの香油は高価なもので、大切なものでした。マルコによる福音書の並行記事によれば、この女性は、壺を割って香油を注いだとあります。香油の壺の蓋をとって注いだのではなく、壺を割ってそそいだのです。それは、香油を余すことなくすべて注ぎだすという意味がありました。高価なものだから半分使い、残りは保存しておきましょうということではありませんでした。「あなたの富のあるところに、あなたの心もある」(マタイ6:21)という御言葉があります。自分にとって大切な価値のある宝に心があるという意味です。この女性は、香油を惜しみませんでした。主イエスに対する愛をどのようにして表すかという事だけを考えていたのです。自分の持てる最上のものをすべてささげ尽くしたのです。
人は皆、心の中に量りを持っているものです。弟子たちは、この香油が300デナリの価値があることを量りました。香油が主にささげられたことに対して、憤慨し、怒ったのです。香油は女性のものであって、弟子たちのものでありませんでした。それでも憤慨しました。ヨハネによる福音書の並行記事によれば、苦情を言ったのはイスカリオテのユダであっとあります。(12:5以下)それは、貧しい人々を気遣ったからではなく、自分が金入れを預かり、中身をごまかしていたのでそのように言ったとあります。ユダは金銭に対する執着があったのです。
 主イエスに対する愛はどのようにして表すことができるでしょうか。
神は、その独り子イエスを惜しみなくこの世に賜りました。そして、主イエスを信じる者に永遠の命を与えてくださいました。また、「わたしたちすべてのために、その御子をさえ惜しまず死に渡された方は、御子と一緒にすべてのものをわたしたちに賜らないはずがありましょうか」(ローマ8:32)とあるように、主は、私たちに日々すべてを与えて勝利を得させてくださっています。わたしたちは、その計り知れない愛と恵みにどのように応答していけばよいのでしょうか。
主イエスは、わたしのために十字架に架かられたと受け入れることです。神である主イエスが命を捨てるほどに、自分は尊い存在であることを知らなければなりません。これは人間的な誇りではなく、ただ神の憐みによるのです。そして、「キリストの愛がわたしたちを駆り立てる」(Uコリント5:14)とあるように、その愛に包まれ、愛に駆り立てられ愛に応答するという体験を持つ者になるのです。
日々の生活の動機が、主の愛によるなら、主の御心に生きることができるのです。
香油を注いだ女性は、ただ主に薫り高い香油をささげたかったのです。十字架の備えになることなど知りませんでした。知らなかったけれども意味のある大切な役割を果たし、主は喜ばれたのです。
そして、世界中でこの出来事が語り伝えられて行きました。
主イエスに贖われた者は、永遠の命に生きる者です。命を与えられ、必要のすべてが約束され、行く道を守り続けてくださるのです。
この世の中に確実なものは何ひとつありません。世の中は変わっていきます。いつ何があるかわからないような時代です。
その中に生きている私たちは、ただ主イエスと主の御言葉に頼ることを教えられているのです。
主イエスは私たちの信仰について問われます。「主イエスを信じ抜きますか?」ということです。わたしたちは信仰の量りを小さくしてはいけないのです。主イエスは与えることについて、「与えなさい。そうすれば、あなたがたにも与えられる。押し入れ、揺すり入れ、あふれるほどに量りをよくして、ふところに入れてもらえる。あなたがたは自分の量る秤で量り返されるからである」(ルカ6:38)と教えられました。
信仰によって自分に与えられているものを惜しみなくささげるとき、その秤によって量り返されるのです。
香油をささげ尽くした婦人は、直後の主イエスの十字架、復活の出来事に遭遇した時、自分のしたことの意義が理解できたことでしょう。
その時には自分でも知らなかったけれども、十字架と復活の出来事の後どれほど素晴らしい、誇らしい業に用いられたかを知ったことでしょう。
私たちは、主イエスの十字架の血潮で内をきよめていただき、聖霊に満たされ、充分に用いられる信仰を持ちましょう。主の十字架を仰ぎ、主にあって全力を注いで励むことができるよう祈りましょう。


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