阪神チャペルセンター
  礼拝メッセージ
 
2016年11月20日
「私に従いなさい」   
マルコ2章13−17節

 私たちの人生の中で、その一生にかかわる大切な決断をしなければならない日があります。その決断によってそれからの生涯が全く違うものになるのです。
主イエスはカファルナウムの町で、レビをご覧になり、「わたしに従いなさい」と声をお掛けになりました。レビは、収税所に座っていたとあります。レビは、聖書の中によく登場する徴税人でした。カファルナウムは、交通の要所で様々な地域との交易が盛んで、品物が集まってくる土地柄でした。それらの品物に税金がかけられ、それを徴収して、ローマ帝国や、領主ヘロデ王に差し出すのが徴税人の役割でした。ただ、税額がきちんと定められていないので、多く徴収して、私腹を肥やすのがあたりまえだったので、徴税人は罪人とされ、人々に忌み嫌われ、神殿の中には入れませんでした。泥棒や、強盗、殺人を犯す者と同じとみなされていたのです。まったく社会の中には入ることができませんでした。人々は徴税人と口をきくこともなく、付き合うことはありませんでした。
主イエスは収税所に座っているレビをご覧になり、「わたしに従いなさい」と、一言言われました。彼は、すぐに立ち上がり、そのまま主イエスに従ったのです。
レビは、主イエスを自分の家に招き、食事を共にしていただきました。その席には、レビの仲間であった多くの徴税人や、罪人が同席していました。そして、多くの罪人がイエスに従ったとあるのです。
ファリサイ派の人々や、律法学者たちは、主イエスが徴税人や罪人たちと一緒に食事をすることが理解できませんでした。「どうして彼は徴税人や罪人と一緒に食事をするのか」(マタイ2:16)と言ったのです。
当時のユダヤの社会は、律法の細則まで厳格に守る人々と、律法の細則までは守れない人々に分かれていました。
ファリサイ派や、律法学者は、律法の隅々まで厳格に守れないような人々を、「地の者」と呼び、罪人と定めていました。客として招いたり、招かれたりなどは絶対にしません。商取引や物の貸し借りなども一切することなく、軽蔑の対象であったのです。ですから、主イエスがそのような人々と食事をすることなど到底理解できませんでした。
主イエスの答えは、「医者を必要とするのは、丈夫な人ではなく病人である。わたしが来たのは、正しい人を招くためではなく、罪人を招くためである。」(マルコ2:17)という明確なものでした。
レビは、主イエスに「わたしに従いなさい」と声をかけられ、召された時、立ち上がり、一切を捨てて主イエスについていきました。
同じように、「わたしに従いなさい」と声をかけられて主イエスに従った人々には、ペトロや、アンデレ、ヤコブ、ヨハネがいます。彼らはガリラヤ湖の漁師でした。彼らもまた、網を捨て、父をそこに残して主イエスに従いました。
レビは徴税人でしたから、いったんその仕事を捨てると、もう元に戻ることはできません。主の十字架の後、ペトロたちはガリラヤに戻り、漁をしていた時、復活の主にお目にかかりました。しかし、レビにとっては後に戻れない出発であったのです。
レビは、またとない新しい人生の出発をすることができました。不正な蓄財で経済的には裕福であったけれども、罪人であるという心の苦しみはどうしようもありませんでした。体は生きているけれども、魂は死んだものだったのです。
主イエスの招きに応じて立ち上がった時、レビは新しく生きる者とされました。
@罪との決別です。不正な儲け方をしていたことから離れました。よどんだ、自分ではどうしようもない、どこにも解決のない心の負債が取り払われたのです。平安な心を持つ者となりました。
Aレビは徴税人でしたから、読み書きができました。後にマタイによる福音書を著すことができたのです。福音書の著者としてその名を全世界に残す者となりました。
Bレビは、主イエスの弟子となった時から、マタイ(神の賜物)と名乗るようになりました。誰からも軽蔑されたていた自分が、神の賜物として大きく用いられるように変えられたことは、どれほどの喜びであったでしょうか。
 主イエスは、罪人を招くために来られました。聖書は、「人は皆、罪を犯して神の栄光を受けられなくなっていますが、ただキリスト・イエスによる贖いの業を通して、神の恵みにより無償で義とされるのです」(ローマ3:23、24)と教えています。
 レビだけではなく、ファリサイ人も、律法学者たちも皆罪があると聖書は教えているのです。主イエスは人の心の中にある罪が人を汚すと言われました。「人から出て来るものこそ、人を汚す。中から、つまり人間の心から、悪い思いが出て来るからである。みだらな行い、盗み、殺意、姦淫、貪欲、悪意、詐欺、好色、ねたみ、悪口、傲慢、無分別など、これらの悪はみな中から出て来て、人を汚すのである」(マルコ7:20−22)
犯罪を犯していないから罪人ではないと考える人がいます。他人に迷惑をかけていないから罪はないと考える人もいます。善い行いをしているから罪とは関係ないと考える人もいます。しかし、聖書は「すべての人は罪を犯したため、神の栄光を受けられなくなっており・・・」(ローマ3:23口語)とあり、罪のない人はいないのです。主イエスが問われるのは、私たちの心なのですファリサイ派や律法学者は、自分たちは誰よりも厳格に律法を守っているので、罪はないと信じていました。しかし、彼らの心の中には罪があり、それに気づくことがありませんでした。
主イエスは、医者を必要とするのは、丈夫な人ではないと言われました。自分が健康であり、悪いところが全くないと思っている人には医師は必要ありません。自分には罪はない、自分には救いは必要ないと思っている人は、主イエスの十字架の贖いがわかりません。罪の自覚がないというのは、実に恐ろしい事なのです。自分は病気であることが分かっているなら、医師を必要とします。助けを求めなくてはなりません。罪を解決したいと心から求めるところに主イエスは来てくださるのです。
「わたしがきたのは正しい人を招くためではなく、罪人を救うためである」(マルコ2:17)主イエスは、自分は正しい人間だと自惚れている人のためではなく、罪を悲しみ、罪の重荷に耐えかね、罪からの救いを求める人ために来られたと言われました。
レビが収税所に座っていたように、自我という罪の座に座り続けているのが人の姿です。罪の中にあることすらわからず、さまざまな苦しみの中にあるのが人なのです。希望のない日々の中に坐する人もいるのです。主は目を留められて、「わたしに従いなさい」と語り掛けてくださいます。立ち上がって、主イエスに従うなら、人生は変わります。暗闇から光へと、絶望から希望へとかえられるのです。主イエスに希望を置くときに決して失望には終わりません。
レビは徴税人でしたが、主の弟子となり、12使徒に選ばれ、最後まで主イエスのために用いられました。
主イエスは私たち一人一人を今日も招かれています。主イエスに従う生涯は、永遠の命の生涯であって喜びと感謝の生涯です。
主イエスの御声にすぐに立ち上がって、新しい命と新しい人生に導かれ、永遠の救いを喜びとし、主と共に勝利の信仰に生きていきましょう。


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