阪神チャペルセンター
  礼拝メッセージ
 
2016年11月27日
「闇から光へ」
コロサイ1章21−23節

 今年も今日からアドベントに入りました。アドベントとは、「待降節」と言い、キリストの降誕を待ち望むクリスマス前の4週間を言います。もともとはキリストの到来、または顕現を意味する言葉でした。クリスチャンにとって、クリスマスまでの4週間、主イエスの御降誕を待ち望み、信仰をかえりみ、信仰を吟味する大切な時です。
なぜなら、クリスマスは本当に喜ばしい救いの表れですが、罪の贖いのための十字架への出発でもあるからです。敬虔な厳粛な思いでクリスマスを待ち望まなくてはなりません。
日本は不思議な国で、クリスチャンは1パーセントという事にもかかわらず、11月から立派なクリスマスツリーが商業施設には飾られています。USJでは、毎年世界一とうたわれているクリスマスツリーがその豪華さと大きさで評判を呼んでいます。今年で最後だそうです。キリストの降誕と救いではなく、ただ人の目を喜ばせ、商業施設の宣伝に使われてしまっていることは残念なことです。
今年こそ、本当のクリスマスの意味を多くの方々に示していきたいものです。11日のクリスマスコンサートのために祈り、お誘いしましょう。
 コロサイ人への手紙は、パウロがローマの牢獄で57年頃記したコロサイ教会に宛てたと言われている手紙です。コロサイは、現在のトルコにある町でしたが、発掘されていないので、観光地となっているエフェソのように遺跡観光にくる人々はいません。
コロサイの人々に、「あなたがたは、以前は神から離れ、悪い行いによって心の中で神に敵対していました」(コロサイ1:21)と書き送られています。神から離れ、神と敵対していたとはどのようなことなのでしょうか。
天地万物の創造者、まことの神を知らなかったという事があります。
日本にも世界にも、神とよばれるさまざまなものが溢れているのです。
それは、救いを必要としている人の心の表れと考えることができます。救いがいらなければ神仏は必要ないからです。
ですから人は神を造りたいのです。礼拝の対象というより、自分を守り、願いを聞いてくれる神が欲しいのです。
「木は薪になるもの。人はその一部を取って体を温め 一部を燃やしてパンを焼き その木で神を造ってそれにひれ伏し 木像に仕立ててそれを拝むのか。また、木材の半分を燃やして火にし 肉を食べようとしてその半分の上であぶり 食べ飽きて身が温まると 『ああ温かい、炎が見える』などと言う。残りの木で神を、自分のための偶像を造り ひれ伏して拝み、祈って言う。『お救い下さい、あなたはわたしの神』と。    
(イザヤ44:15―17)
イザヤは、人の心の有様を描いていいます。肉を焼いて食べ、体を温め、同じ木の残りで偶像を刻んで、私を救って下さいとひれ伏すとあります。しかし、彼は悟らず、目覚めない。「彼は自分の魂を救うことができない」(イザヤ44:20)
私がしていることは偽りではないかとも言わないとあるのです。このように、真の救い主を信じることなく、人間が造り出したものに信頼をおくということが、神に敵対する悪い行いということなのです。
日々の生活の中で起きて来るさまざまな出来事を受け止めかね、悩みながら人は生きていきます。生きておられる真の救い主にしか救いはありません。
真の救いとはイエス・キリストによるものです。主イエスがこの世に生まれて下さり、十字架に架かって下さったことによって、全世界に救いがもたらされたのです。神との和解という言葉が使われています。
心を閉ざし、受け入れようともしない、父なる神に帰ろうともしない人間に、神はイエス・キリストを遣わし、十字架という和解の手を差し伸べてくださいました。父なる神に立ち帰りなさいという救いの手です。
イエス・キリスト十字架の死と復活を信じる者は、たちどころに救われるのです。神の前に「聖なる者、きずのない者、とがめるところのない者」(コロサイ1:22)とされるのです。
人は罪深い者です。生まれてから一度も罪を犯さない人はいません。
人には、人間関係の不和などの問題が起きてくるのですが、その原因は、自分の心の中にあることが多いのです。相手を裁き、自分を正当化してしまうと、問題は解決しません。心にある罪を問われるなら、だれも逃れることはできず、それが暗闇なのです。
誰にも知られていないような罪も神は知っておられます。罪の解決なしには、平安はありません。誰でも、イエス・キリストの十字架の贖いによって、「聖なる者」にされるのです。すべての罪が許されて神の前に聖い者と認められるのです。罪の傷も、心の傷も癒され、神が許された者をだれも罪に定めることはできません。
現在誰もが知っている、賛美歌「アメージンググレイス」は、イギリス人牧師、ジョン・ニュートン(1725−1807)が作詞しました。
驚くべき神の恵みという意味の賛美歌です。彼は、奴隷貿易で財をなした人間でした。西アフリカから、アメリカやヨーロッパへ過酷な環境と方法で黒人を奴隷として船で輸送しましたが、別に良心の呵責を覚えることはありませんでした。黒人を生きている人として見ていたのではなく、家畜か商品にしか見ていなかったのです。
しかし、22歳の時、イギリスへ向かう船が嵐に会い、転覆するほどの恐ろしい経験をしました。彼の母親は、敬虔なクリスチャンでしたが、母の信仰を見ていながら、彼自身は信仰もなく、それまで祈ることはありませんでした。
ニュートンは、この嵐の中で死の恐怖に陥った時、はじめて神の助けを祈りました。不思議なことに船は守られ、転覆することもなく無事に生還することができました。彼はこのような神の助けを体験して、はじめて自分のしていることが分かり始めました。自分の罪深さが分かり、数年の後、牧師として再出発することになりました。真の救いを体験し、奴隷船の船長から、神の僕に変えられました。神が差し出した和解の手を受け止め、握り占めたのです。
ジョン・ニュ―トンが奴隷貿易にかかわったという過去は取り消すことができません。人は過去に犯した罪を消し去ることはできません。もう取り返しがつかないのです。過去に嘘をついたことも取り消すことはできません。しかし、神は、「わたしはあなたの背きを雲のように 罪を霧のように吹き払った。わたしに立ち返れ、わたしはあなたを贖った」(イザヤ44:22)と言われます。神に背いていたことも、どのような罪をも吹き払い、もう思い出さないと言われるのです。イエス・キリストによって贖われ、聖い者とされたのです。闇の中から、光の中へと導き入れられました。このキリストの光の中から、希望から離れることなく、この救いの中にしっかりと立ち、たった一つの救いの道、イエスキリストを伝えるなら、御業は起こります。
ニュートンの母親は、早くに召されたのですが、幼いニュートンの前で聖書を読み、語り聞かせ、よく祈ったそうです。その姿は心に残りました。ニュートンの回心につながっていたのです。
もし、私たちの信仰の姿勢がキリストの光を放つなら、闇の中にいる人々の救いにつながります。私たちが聖書を読む姿、祈る姿、ひたすら主に従う姿勢を貫くなら、誰かがそれによってキリストに結ばれるのです。それは家族かもしれません。友人かもしれません。だれかがキリストに結ばれるのです。主イエスこそが唯一の救いの希望です。闇から光へと導いてくださる救い主です。この方を心から崇め、お迎えし、御降誕の備えをしていきましょう。
「わたしは世の光である。わたしに従う者は暗闇の中を歩かず、命の光を持つ」(ヨハネ8:12)


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