阪神チャペルセンター
  礼拝メッセージ
 
2016年12月11日
「すべての人を照らす光」
ヨハネ9章35−40節

 アドベント第3週の礼拝をささげられる事を感謝します。きょうの午後は、祈り備えてきたゴスペル・コンサートです。多くの来会者が導かれ、クリスマスの喜びを分かち合って、救いの御業があらわされるよう、祈り、さらに備えましょう。
クリスマスにはキャンドルサービスを致します。ろうそくをともして主の御降誕を祝い、礼拝します。また、アドベントには、アドベントクランツと言って、もみの小枝やヒイラギなどで、クランツを作り、ろうそくを4本立て、アドベントの一週間ごとに一本ずつ火をともして、4週目にクリスマスを迎えるという習慣もあるようです。いずれにしても、キリストは闇夜を照らす真の光であり、この救い主が世に来られた事を意味するものなのです。
さて、ヨハネ9章は、生まれつき目の見えない人が癒された出来事が記録されています。ファリサイ派は、生まれつき目が見えないのは、本人か両親かが罪を犯したためと考えていました。しかし、主イエスは、「神の業がこの人に表れるため」とはっきり教えてくださいました。
人には理不尽な事や、不幸と思われる事などが起きてきますが、主イエスを信じる者は、「神の業が表れるため」であることを信じ、すべてが益になることを知るためであると考える事ができて、事実そのようになることを体験できるのです。
主イエスは、地面に唾をしてそれで土をこね、この人の目に塗りました。そして、「シロアムの池に行って洗いなさい」と命じられました。彼はシロアムへ行き、目を洗いました。そして目が見えるようになって帰ってきたのです。人々は驚き、この人が物乞いをしていたあの盲人かどうか言い合ったのですが、本人が「わたしがそうなのです」と証ししました。どうして目が見えるようになったかという問いに、「イエスという方」の言う通りにしたら、見えるようになったと話しました。
次にファリサイ派がどうして見えるようになったのかと尋ねました。彼は、同じように答えましたが、目を開けたのは誰かと聞かれて、「あの方は預言者です」と言いました。ユダヤ人たちは信じることができなかったので、両親を呼んで尋ねたのですが、両親は、「息子は目が見えなかったのに、見えるようになったことは事実ですが、なぜそのようになったのかは、もう大人ですから本人に聞いてください」と答えました。なぜなら、イエスはメシアであると公に告白した者は、ユダヤ人の会堂から追放することが決められていたからです。当時、会堂から追放されるという事は、神から絶たれると考えられていたので、それを恐れたのです。ファリサイ派は、もう一度目が見えるようになった人を呼んで、主イエスの事を罪ある者と決めつけました。しかし、彼は、「目が見えなかった自分が見えるようになった事」を証言し、「神は罪人の言うことはお聞きにならないと、わたしたちは承知しています。しかし、神をあがめ、その御心を行う人の言うことは、お聞きになります。生まれつき目が見えなかった者の目を開けた人がいるということなど、これまで一度も聞いたことがありません。あの方が神のもとから来られたのでなければ、何もおできにならなかったはずです」(ヨハネ9:31−33)と語りました。ファリサイ派は、「お前は罪の中に生まれたのに、我々に教えようというのか」と言い返して彼を追い出しました。
主イエスは、彼が追い出された事を聞かれて、彼と出会われました。そして、「あなたは人の子を信じるか」と聞かれました。「主よ、その方はどんな人ですか。その方を信じたいのですが」(ヨハネ9:36)と言うと、主イエスは、「あなたは、もうその人を見ている。あなたと話しているのが、その人だ」(ヨハネ9:37)と言われたのです。彼は、直ちに「主よ、信じます」と応答しました。
主は、「わたしがこの世に来たのは、裁くためである。こうして、見えない者は見えるようになり、見える者は見えないようになる」(ヨハネ9:39)と言われました。
主イエスがこの世に来られた目的は、すべての人の罪の贖いのために十字架に架かられるためでした。ですから、「人の子は失われたものを捜して救うために来たのである」(ルカ19:10)と言われました。
救うために来られたのに、「裁くために来た」と言われたのです。
そして、見えない者は見えるようになり、見える者は見えないようになるとも言われました。
生まれながらの盲人は主イエスによって癒されて、目が見ええるようになり、また、主イエスを信じて心の目も開かれました。主イエスの救いをいただくことができました。
しかし、ファリサイ派の人々はどうだったでしょうか。自分たちは律法の隅々まで知っていて、それを厳格に守っている。立派な生き方をして、人々を教え導く者であると自負していました。しかし、彼らについて主イエスは、「白く塗った墓」(マタイ23:27)と評されたのです。
それは、外側は美しく見えるが、内側はあらゆる汚れで満ちているのだと言われました。外側は人に正しいように見えながら、内側は偽善と不法で満ちているとも言われたのです。
「裁かれる」とは、人が主イエスに招かれた時にどのように応答するかなのです。自分は見えている、よく分かっている、立派な生活、行いをしていると思いこんでいるなら、主イエスの救いの招きに答えようとすることはありません。丈夫な人には医者はいらないという事です。罪の自覚がない人は救いがわかりません。しかし、それは見えると言いながら、実は何も見えていないということなのです。ちょうどファリサイ派の人々がそうでした。悔い改めることがないばかりか、主イエスを憎み、十字架へと画策していくのです。
一方、自分は見えていない、心の中は闇である。行き詰まり、光が欲しいと切望する者は、真の光に出会った時、この光を心に受け入れます。
自分の罪深さを悔い改め、主イエスを救い主として受け入れるのです。
ファリサイ人たちはどうしても悔い改めませんでした。あくまでも見えると言い張ったのです。自分が自分を裁いてしまったのです。ですから、主イエスは見えると言い張るところにあなたの罪があると、教えて下さったのです。
目が見えるようにしていただいた人は、主イエスが誰であるかわかりました。最初は、主イエスを「イエスという方」がシロアムへ行って洗えと言われたと語り、イエスは素晴らしい人だと思いました。主は、地上にある時は、完全な素晴らしい人であられました。
次に主イエスを「預言者です」と証言しました。預言者とは、神の言葉を告げる人です。主イエスは神の言葉を告げられたのです。
また、「主よ、信じます」と、主イエス・キリストを信じる者になりました。主イエスを神と信じる者となったのです。
目が見えるようになるとともに霊の目も開かれました。永遠の救いをいただくことができました。
主イエスは、救いのために来られました。しかし、頑なにその救いを受け入れることがないならば、それが自分が自分で裁くことになってしまいます。この救いの光を拒んではなりません。
また、主イエスの救いを声をあげて伝える必要があります。困難でも伝えるなら、神の業は起こるのです。
主イエスは、すべての人を救いの光で照らして下さるお方です。そして、真の救い主です。アドベント、クリスマスを待ち望むこの時、もう一度自分自身の内を探っていただき、純粋な信仰に生かされましょう。そして、救いを心から感謝しましょう。主の栄光を現す信仰に生きる者となりましょう。
「キリスト・イエスは、罪人を救うために世に来られたという言葉は真実であり、そのまま受け入れるに値します。」Tテモテ1:12


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