阪神チャペルセンター
  礼拝メッセージ
 
2016年12月18日
「救いの光」
詩編56編10−14節

 アドベント第四週の礼拝を感謝します。来週はいよいよクリスマス礼拝です。また、今週は、24日にファミリークリスマスがあります。
多くの方々が出席されて、主イエスとその恵みを受け入れるように、祈りましょう。
11日には幸いなゴスペルコンサートを持つことができました。
来会者は32名、アンケート記入者は23名でした。しっかりとフォローアップをしていきたいと思います。
さて、詩編56編は、表題にあるように、ダビデがサウル王に追われて、ノブの祭司アヒメレクの許を訪れて供えのパンをもらい、また、ゴリアテの剣をもらってから、敵であるペリシテの王アキシュの許に逃れました。
アキシュの家臣にダビデであることを見とがめられてしまい、ダビデは危害を加えられるのではないかと、アキシュを大変恐れました。
そこで、ダビデは気が狂った人を装わなければなりませんでした。アキシュはあきれてしまい、ダビデを捕らえたままにせず追放したのです。
その時詠んだ詩編として、34編が大変有名です。ダビデは、人生の中で苦しい時に、「どのようなときも、わたしは主をたたえ、わたしの口は絶えることなく賛美を歌う。わたしの魂は主を賛美する。貧しい人よ、それを聞いて喜び祝え。わたしと共に主をたたえよ。ひとつとなって御名をあがめよう」(詩編34:2−4)と、主を崇め賛美しました。
ダビデは、ベツレヘムのエッサイの末息子でした。7人の立派な兄たちがいました。サウル王が不信仰と不従順のために退けられ、神は次の王に選ばれる者に油を注ぐために、サムエルをエッサイの許に遣わされました。神が選ばれたのは、成人した立派な兄がいたのに、まだ子供であったダビデでした。
やがて、多くの戦いの後、ダビデはイスラエルの王になりました。
ダビデは王になってから、神のための神殿を建築しようと思うのですが、神は預言者ナタンを通して、それを許されないことを告げられたのです。
神殿を建てるのはダビデではなく、その子であり、「わたしは彼をとこしえにわたしの家とわたしの王国の中に立てる。彼の王座はとこしえに堅く据えられる」(歴代上17:14)と、ダビデの王座は永遠のものであると約束されました。これが、ダビデの子孫からメシアが生まれるという最初の約束でした。さらに、預言者イザヤは、「エッサイの株からひとつの芽が萌(もえ)いで その根からひとつの若枝が育ち その上に主の霊がとどまる。知恵と識別の霊 主を知り、畏れ敬う霊。」(イザヤ11:1−2)と語りました。
ダビデの地上の王国は、ソロモンの死後、南王国ユダと、北王国イスラエルに分裂し、北王国はBC731年アッシリアに、南王国はBC597年にバビロンによって滅ぼされてしまいました。その後、ダビデの子孫が地上の王となることはありませんでした。
イスラエルは長い間メシアを待ち望みましたが、しかし、その方がいつどのように来られるのかは知りませんでした。ただ、ミカ書にはベツレヘムから出るとあったのです。「エフラタのベツレヘムよ お前はユダの氏族の中でいと小さき者。お前の中から、わたしのために イスラエルを治める者が出る。(ミカ5:1)これが、東の博士たちが来た時、ヘロデ王が恐れた預言でした。
 イザヤの時代から800年後、約束のメシアがダビデの子孫から誕生されました。マタイによる福音書の初めに、イエスの系図が記されているのは、この方がダビデの子孫としてお生まれになった方であるからなのです。
 なぜダビデが選ばれたのかは、それは神の主権にあることです。しかし、ダビデはどのような時も神を信じ、信頼する人であったことは確かです。
「神を呼ぶ」人でした。神が生きておられる方であることを良く知っていました。「主よ、助けてください」と叫ぶなら、神は助けてくださることを幾度となく体験したのです。「敵は必ず退く」ことが分かっていました。神は、味方なのです。「もし神がわたしたちの味方であるならば、だれがわたしたちに敵対できますか。」(ローマ8:31)とある通り、神は私たちの味方なのです。
頼るべきお方は神以外にない事が、11節12節で告白されています。
「神の御言葉を賛美します。主の御言葉を賛美します。神に依り頼めば恐れはありません。人間がわたしに何をなしえましょう。」(詩編56:11、12)人は絶対的な力を持つ者ではありません。魂には触れることができない者なのです。主イエスは、「体は殺しても、魂を殺すことのできない者どもを恐れるな。むしろ、魂も体も地獄で滅ぼすことのできる方を恐れなさい」(マタイ10:28)と教えてくださいました。この力ある、権威ある唯一の神が味方となってくださる事ほど、絶対的な安心はありません。
 何度も命にかかわるような事態の中にあったダビデは、神によって救われ、死から命へ移された体験を持ちました。それを、「命の光の中に 神の御前を歩かせてくださいます」(詩56:14)と感謝をささげ、平安と感謝の心をうたいました。
 主イエスによって救われたクリスチャンも丁度同じなのです。
イエス・キリストによって、はじめて光の中へと招き入れられ、救いと命の中に日々生かされる者となりました。
 人が解決しなければならない問題は、死の問題であると思います。死は忌むべきものであり、恐ろしい事であると考えられます。
しかし、生まれてきたことが自分の意思ではなかったように、死も思うようにできないことであるのは確かです。
今年は多くの方々が召されました。教会では梶本葆兄が召されました。牧師では、私たちの結婚の時の証人をしてくださった、熊本聖書教会の長沢愛子先生が召されました。加古川教会の楠橋清隆先生、カリフォルニアの星教会のアブラハム石原先生、そのほかにも、もっと多くの方々が召されたのです。召された方々は、皆、「わたしは、戦いを立派に戦い抜き、決められた道を走りとおし、信仰を守り抜きました。今や、義の栄冠を受けるばかりです」(Uテモテ4:7)とあるように、信仰を全うされ、その働きを終えて主イエスの許に召されたのです。悲しみは残りますが、それ以上の揺るがない平安が与えられています。確実に主イエスの許にあることが動かされない大きな平安なのです。永遠の命の平安です。
その救いと光を与えるために、主イエスはダビデの末からこの世に来て下さいました。主イエスによる以外に救いはありません。永遠の命をいただく方法は、イエスをキリスト、救い主と信じ、受け入れること以外にはないのです。
ダビデは、「あなたは死からわたしの魂を救い 突き落とされようとしたわたしの足を救い」(56:14)と告白しました。
クリスマスは、滅びようとしていた者が主イエスによって命に帰る時です。行き暮れていた者が救いの光を見出す時であるのです。
この大きなすばらしい救いの時を賛美しましょう。大きな声で救いを告げていきましょう。
私たちの隣に崖っぷちに立っている人がいるのではないでしょうか。
深い迷いの森に迷っている人がいるのではないでしょうか。行き暮れてかがみこんでいるような人がいるのではないでしょうか。
主イエスはそのような人々を救い、命の光、救いの光の中に招くために来られました。
ここに救いがあります。真の答えがありますと、声を大きくして告げ知らせて、クリスマスをお迎えしましょう。


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