阪神チャペルセンター
  礼拝メッセージ
 
2017年1月1日
「希望と輝く命に溢れて」
ローマ5章1-5節

 「このように、わたしたちは信仰によって義とされたのだから、わたしたちの主イエス・キリストによって神との間に平和を得ており、このキリストのお陰で、今の恵みに信仰によって導き入れられ、神の栄光にあずかる希望を誇りにしています。そればかりでなく、苦難をも誇りとします。わたしたちは知っているのです、苦難は忍耐を、 忍耐は練達を、練達は希望を生むということを。希望はわたしたちを欺くことがありません。わたしたちに与えられた聖霊によって、神の愛がわたしたちの心に注がれているからです。」                -ローマ5章1-5節―
 主の栄光を崇めます。新年明けましておめでとうございます。今日このように御言葉を取り次ぐ恵みを心より感謝します。思い返せば一昨年の6月に十二指腸乳頭部の初期癌を切り取る手術を受けました。15時間に及ぶ大手術でしたが、優れた先生方の治療によって予定通り回復しました。体重が10数キロ落ちたのですが、約束していたアドバンストスクールの講義、10月には北陸教区聖会のご用をさせていただきました。しかし11月に心筋梗塞にかかり、続いて4月以降4回に亘り大腸の出血を繰り返して、手当てを受けました。去る10月に退院したのですが、その時は立ち上がることが困難でした。今は何とか立ちあがることができ、歩けるようになっており、元旦のご用が務めることができるようになりました。退院して最初の診察を受けた時、医師に「復活しましたね」と言われて、「生かされている」との実感が沸き上がり、改めて主のみ名をほめたたえました。みなさんの厚い祈りが主の御手を動かし、高度な医療技術が輝く「いのち」を支えて下さった事と思います。一度死に、新たに甦ったものと思います。 私は、新たに甦った「いのち」に生かされていると思います。現実には人は誰でも人生の終わりが来ます。命には限りがあるのです。死は、悲しみ、孤独、不安、消滅です。この現実から、命の消滅は絶望であり、暗闇であるといえます。「いのち」があるところに人それぞれに夢を持ち、希望に生きるのです。生きることは希望に生きることになります。生きるところの希望があり、希望のあるところに「輝くいのち」があるのです。私は、今82歳です。病気を通して死に出会い、全く新しい命に生かされているのです。それでも死は到来するのです。人間の人生は、どのように幸せであっても、孤独、不安、消滅に終わるのでしょうか。
 創造主なる神様に出会う時、神の国に生きる永遠の命に生きる道に導かれるのです。主イエスは、「わたしは復活であり、命である。わたしを信じる者は、死んでも生きる。 生きていてわたしを信じる者はだれも、決して死ぬことはない。このことを信じるか。」(ヨハネ11:25-26)と言われました。‶死なない”命、永遠に変わらない命に生きる約束を与えられるのです。死という出来事は、全ての人、地上の有限の命ある者すべてが経験することなのです。有限の命です。しかしイエス様は、有限の世界にも永遠の命である神の国が共にある事を、指摘されています。
「イエスは答えて言われた。「神の国は、見える形では来ない。『ここにある』『あそこにある』と言えるものでもない。実に、神の国はあなたがたの間にあるのだ。」(ルカ17:20-21)あなた方の間とは、イエス様を信じる人々の交わりを指しているのであって、ヨハネの手紙4章12節、13節には、「いまだかつて神を見た者はいません。わたしたちが互いに愛し合うならば、神はわたしたちの内にとどまってくださり、神の愛がわたしたちの内で全うされているのです。神はわたしたちに、御自分の霊を分け与えてくださいました。このことから、わたしたちが神の内にとどまり、神もわたしたちの内にとどまってくださることが分かります。」とあり、神のとどまられるところ、神の臨在されるところこそ神の国であると示されています。現実に神の国が実現していることに気付かねばなりません。死で終わる人生は空しく儚く絶望であるといえます。「神は愛だからです」(ヨハネ手紙Ⅰ4:8)神を信じることは神の愛に生きることを意味します。神の御心に生きることこそ永遠の命に生きる者であるのです。ですから信じる者は、主イエスによって永遠が与えられるのです。そこに神にある人生の目的が示されることになります。
「知らないのですか。あなたがたの体は、神からいただいた聖霊が宿ってくださる神殿であり、あなたがたはもはや自分自身のものではないのです。あなたがたは、代価を払って買い取られたのです。だから、自分の体で神の栄光を現しなさい、(コリントⅠ6:19-20)ここに人生の目的が明白に記されているのです。「神の栄光にあずかる希望を誇りにする」(ローマ5:2)というのがクリスチャンの生涯であるのです。
神を信じなない人にも命はあります。与えられたいのちは生きることを願い、欲望は様々な幸せを求める希望を持ちます。しかし、人生は死で終わるのです。空しく、儚いものです。しかしイエス様を救い主として信じる時、「このキリストのお陰で、今の恵みに信仰によって導き入れられ、神の栄光にあずかる希望を誇りにしています。」(ローマ5:2)。神の栄光にあずかる希望を誇りにする人生こそ、神を信じる人々の人生の目的です。
 希望には二つの動機があります。まずごく自然な生きる欲望から生まれるものがあります。「むしろ、人はそれぞれ、自分自身の欲望に引かれ、唆されて、誘惑に陥るのです。そして、欲望ははらんで罪を生み、罪が熟して死を生みます。人はそれぞれ、自分自身の欲望に引かれ、唆されて、誘惑に陥るのです。 そして、欲望ははらんで罪を生み、罪が熟して死を生みます。」(ヤコブ1:14-15)この言葉は、自己欲に生きることを目的にすることを言っているのです。キリストを信じる者にとっては、「あなたがたのうちに働きかけて、その願いを起こさせ、かつ実現に至らせるのは神であって、それは神のよしとされるところだからである。」(ピリピ2:13口語)とあるように、願いは神が備えて下さることが分かります。本来、クリスチャンは神様の御心に生きる、神様の栄光を称えることができることを人生の目的にするのです。そのことから、生活の願い、希望は神様が導かれることを信じることを信仰の基本とするのです。
第一にクリスチャンは、神様にあって成長し、祈ること、聖書に親しむこと、奉仕に用いられることが喜びであって、希望であることを心にとどめたいものです。そして家庭や、社会生活の中で求めるべき希望を明らかにして、祈り、希望が実現する努力をしたいものです。又、一人一人の個人の人生設計の中で、希望を与えられるように祈りたいものです。信仰生活の基礎となる神の御心に生きることは、「神の言葉」聖書にあるのです。神の言葉を聴くことから応答としての生活が始まるのです。そこに祈りの生活が生まれます。祈りに裏付けられた生活は希望の道しるべとなります。そして、さらに日々の生活の希望を明らかにして祈り求めるのです。日々の聖書通読を実践する事。「いつも喜んでいなさい。絶えず祈りなさい。どんなことにも感謝しなさい」(テサロニケⅠ5:16-18)の御言葉によって、「希望は失望に終ることはない」(ローマ5:5節口語)ことを忘れてはなりません。
 希望は、ある時には失われ、現実にうまくいかない時もあります。絶望です、しかし、「神の栄光にあずかる希望」のあるところにはその試練を忍耐する力が備えられているのです。試練を通して忍耐する力が与えられるのです。その忍耐は一層練達した力を与えるのです。その練達は絶望を希望にして下さる神の恵みによって解決の確信に導かれると約束しています。その保証は、「希望はわたしたちを欺くことがありません。わたしたちに与えられた聖霊によって、神の愛がわたしたちの心に注がれているからです。」(ローマ5:5)神の御言葉です。クリスチャンは、全能の神の愛が御言葉に約束されて、神に守られているのです。
 新しい年を、いかなる試練も恐れることなく、新しい年にふさわしい希望をもって始めようではありませんか。
「信仰とは、望んでいる事柄を確信し、見えない事実を確認することです。」(へブル11:1)


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