阪神チャペルセンター
  礼拝メッセージ
 
2017年1月8日
「喜びと命に満ち溢れて」
フィリピ4章4−7節

 「主において常に喜びなさい。重ねて言います。喜びなさい。 あなたがたの広い心がすべての人に知られるようになさい。主はすぐ近くにおられます。どんなことでも、思い煩うのはやめなさい。何事につけ、感謝を込めて祈りと願いをささげ、求めているものを神に打ち明けなさい。そうすれば、あらゆる人知を超える神の平和が、あなたがたの心と考えとをキリスト・イエスによって守るでしょう。」(フィリピ4章4−7節)
「いつも喜んでいなさい。絶えず祈りなさい。どんなことにも感謝しなさい。これこそ、キリスト・イエスにおいて、神があなたがたに望んでおられることです。」(テサロニケT5章16−18節)

 「喜ぶ」ことは人間の特性です。動物の喜びは、自己生命の維持の「満足」にあります。しかし、同じ動物である人間にとって、「喜び」は理解されることによって持つことができるものであり、人間として生きる証です。以前、神戸の風月堂の地下のホールで、桂文珍の独演会があるので出かけたことがあります。おはやしが始まり、文珍が出演すると後ろの方から大きな声で「ワッハハ・・・」という笑いが、会場いっぱいに聞こえてきました。出演者は、「すみません。初めから笑ってもろうては話ができません。よろしく。」と、言わなければなりませんでした。笑いと喜びには意味、理由があるものです。出来事の関係がないのに意味のない反応の「笑い」は、異常と言えます。動物には笑いはないと言えます。理解がないのです。「喜び」は笑いと共通していながら、人の「喜び」とは違うと言えます。
人は、生きる喜び、働く喜び、創る喜び、共に生きるなどの喜びを持つことができます。しかし、死という消滅、破壊、虚しさ、儚さに出会うことが見えている人の一生、空しい現実があるのです。
しかし、創造主なる真の神によって与えられる、永遠の命を自覚する命へと導かれる時、真実の人間としての生きる道を歩ませられるのです。真実の神の招きに心を閉ざす時には、死の不安、霊の迷い、絶望の闇にとどまることになるのです。
「神は、その独り子をお与えになったほどに、世を愛された。独り子を信じる者が一人も滅びないで、永遠の命を得るためである。神が御子を世に遣わされたのは、世を裁くためではなく、御子によって世が救われるためである。御子を信じる者は裁かれない。信じない者は既に裁かれている。神の独り子の名を信じていないからである。 光が世に来たのに、人々はその行いが悪いので、光よりも闇の方を好んだ。それが、もう裁きになっている。悪を行う者は皆、光を憎み、その行いが明るみに出されるのを恐れて、光の方に来ないからである。」            (ヨハネ3:16−20)
 人間は現実に有限の命に生かされています。イエス・キリストは人間の不可視な命が永遠に存在することを自覚させてくださるのです。自覚できない霊的な自分を自覚させ、活ける真の神との回復を成就させてくださるのです。真実の神を知らない、自覚しない人は、神の御心にそうことはなく、空しく生涯を消滅で終わります。しかし、神の御子イエス・キリストを受け入れることによって、罪が許され、贖われ、神を信じない最大の罪からの解決があります。
「今や、キリスト・イエスに結ばれている者は、罪に定められることはありません。キリスト・イエスによって命をもたらす霊の法則が、罪と死との法則からあなたを解放したからです。」(ローマ8:1−2)
 クリスチャンには「自分の体で神の栄光を現しなさい」(コリントT6:20)という人生、生活の目的が示されています。言い換えれば、「神様の御心に生きなさい」と言うことです。「神が称えられ、神に感謝できる。神様の御心に生きる」ということになります。」そこで日々の生活において、「喜ぶ」ことが求められています。クリスチャンの生活は、「喜ぶ」事にあります。
「主において常に喜びなさい。重ねて言います。喜びなさい。あなたがたの広い心がすべての人に知られるようになさい。主はすぐ近くにおられます。」(フィリピ4:4−5)「いつも喜んでいなさい。」(テサロニケT5:16)。喜びは希望によって生まれる。希望のない生活は喜びのない生活であると言えます。希望があるところに忍耐する力があり、そこから練達が生まれます。(ロ−マ5:4)希望を実現する苦難が、忍耐を生み、その経験は練達を生むのです。この試練、苦難、忍耐、練達が希望と命となり、その中心に「喜び」が、命の証となるのです。
 「喜び」があるところに「祈り」があり、その喜びの希望の実現の力として「祈り」があるのです。いつも「祈る」事こそ「栄光」を称える土台であるといえます。祈りは神様の御心を命とし、希望の道を確かにするのです。そして、主の御心に生き、主にある希望を実現するところに「感謝」があふれるのです。
 いつも喜び、絶えず祈り、全ての事に感謝する。「いつも」「絶えず」「どんなことにも」希望を失わず、これを命として主の栄光を現すことこそ「喜び」だと言えます。「喜び」は「いのち」です。
 「いつも」「絶えず」「どんなことにも」喜び、祈り、感謝できることは、人間の力では不可能です。しかし、主イエス様の約束がそこにはあるのです。「いつも」「絶えず」「どんなときにも」喜べるように、祈れるように、感謝できるように「してあげる」という主イエスの約束がある事を忘れてはなりません。聖書を読む鍵は、主イエスの「しなさい」という命令形は、「してあげよう」という約束が裏付けられていることを覚えなければなりません。そこに「感謝」があるのです。ハレルヤ
  主にある「喜び」は、真実に生きる命に裏付けられています。神様を信じる信仰は、神に愛されている自分の自覚に生きることです。
「御父が、その豊かな栄光に従い、その霊により、力をもってあなたがたの内なる人を強めて、信仰によってあなたがたの心の内にキリストを住まわせ、あなた


がたを愛に根ざし、愛にしっかりと立つ者としてくださるように。また、あなたがたがすべての聖なる者たちと共に、キリストの愛の広さ、長さ、高さ、深さがどれほどであるかを理解し、人の知識をはるかに超えるこの愛を知るようになり、そしてついには、神の満ちあふれる豊かさのすべてにあずかり、それによって満たされるように。わたしたちの内に働く御力によって、わたしたちが求めたり、思ったりすることすべてを、はるかに超えてかなえることのおできになる方に、教会により、また、キリスト・イエスによって、栄光が世々限りなくありますように。アーメン」(エフェソ3:16−21)。
まだ見ていない一年をキリストによって示された神の愛によって、生きる道の希望をしっかりと打ち立てて、希望の実現に当面する試練や困難を神に導かれ、助けられ支えられ、希望の実現に至るところに、真実の「喜び」が生きる力となるのです。
 クリスチャンに神から与えられている「喜び」は、キリストにある罪の贖いと、神の愛の恵みに永遠の命を生きる「喜び」です。この喜びは人々と共に分かち合う神の国の実現です。命は神に与えられた尊いものです。科学する理性の探求で、高度な医学が開発されています。しかし、果てしなく続く医科学の進歩があっても、命は有限であるのです。しかしながら、イエス・キリストを信じて永遠の命に生きる人として、神の愛が現実の世界に生かされ、家庭に、世界に、神の愛に基づく真実の平和と安らぎが実現するのです。それはクリスチャン以外にはできない事です。消えゆく命の輝きを灯し続ける医学の進歩は、医学を研究し、学ぶ医者によってなされるのです。しかし、死を超えて人間の永遠性の世界、「神の国」に生きる道を確かに、確実に伝え、導き、案内することが、クリスチャンに与えられた使命です。福音を宣べ伝えることこそ、クリスチャンに与えられた使命です。神の愛を信じ、神の愛を実践し、神の愛を生きることにこそ神の国に生きる喜びがあるのです。ハレルヤ


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