阪神チャペルセンター
  礼拝メッセージ
 
2017年1月15日
「福音の恵みと喜びの力」
マルコ16章14−16節

 「その後、十一人が食事をしているとき、イエスが現れ、その不信仰とかたくなな心をおとがめになった。復活されたイエスを見た人々の言うことを、信じなかったからである。それから、イエスは言われた。『全世界に行って、すべての造られたものに福音を宣べ伝えなさい。信じて洗礼を受ける者は救われるが、信じない者は滅びの宣告を受ける。』」 (マルコ16章14−16節)                                      
日本人は、お正月には祝いの言葉を交換します。また、多くの人が初詣として社寺仏閣にお参りします。大晦日の深夜から名のある社寺には何十万の人が参詣に集まるのです。中には何か所も社寺を回る人もいます。お寺でも神社でも構わないのです。おそらく、一人一人が福を願い、良い年になるようにと祈願するのでしょうが、それは生活の中の習慣であって、現実には何の力にも支えにもなっていないと言えます。もちろん、お正月に願う願いが神様にかなえられるという思いがあるのでしょうが、実際にはお参りに行く神社、仏閣の本尊が何かはわからないで習慣として“おかげ”を期待するのです。
 日本には「八百万の神」があって、「何様がおわしますかは知らねども、ただありがたさに頭うなだる」、「鰯の頭も信心から」と言うように、信心する心は本来的に長い風俗の中で養われてきた風習であると言えます。四季が明白であり、季節と共に豊かな実りを得る風土、また時には人間の力を超えた風水害の苦難の中で、自然こそ人間の存在を超えた存在であり、それを神として森羅万象の中に神を見てきたのが日本の宗教心の原点と言えましょう、そして、仏教が渡来して、仏陀の多様な表現として、森羅万象の中に仏が現されているということから、神仏混淆の様式が精査せられるようになっているのです。そもそも、仏教は、インドの釈尊に始まります。中国から渡来した飛鳥時代、奈良時代には王族貴族など、支配階級の人々が信仰したのですが、政争の変化の流れの中で、平安時代、―京都―に、空海や最澄の教えから、やがて法然の念仏宗が生まれ、諸衆、男女、貴賎を問わず成仏する教えを徹底したのが親鸞や、日蓮であったのです。下剋上のめまぐるしい世相の戦乱の中で、今日ある命、明日どうなるかもわからない戦国時代、武士階層中心に禅宗が根付くようになるのです。戦国時代の終わり、1549年ザビエルがキリスト教を伝えるのですが、宗教は支配者の精神的自覚として裏付けられている時代であり、寺には寺領が与えられて維持せられてきたのです。その後キリスト教は鎖国体制のために禁教となり、言語に表せない苦難の迫害が始まりました。弾圧のために人々を居住地の寺に登録をさせ、信仰の監視が徹底され、キリスト教は邪教として嫌われるようになったのです。270年の鎖国を通して、キリスト教に偏見が定着したのです。
そして、どのような信仰のあり方、どのような神か知らないうちに、なんにでも「拝む」という風習となっているのです。「鰯の頭も信心から」という諺ができるようになっているのです。
真の神は、聖書の冒頭に明白に宣言しているように、「初めに、神は天地を創造された」(創1:1)創造の根源的な存在としての神であるのです。自然の存在には創造の初めがあったのです。自然の営みは、無秩序に構成されているのではなく、有限な人間の理性や理解力を超えた神の秩序があるのです。
ヨハネによる福音書の最初に、「初めに言があった。言は神と共にあった。言は神であった。」(1:1)とあります。「言葉」の本質です。この「言葉」はロゴスであって、ロゴスは理性を意味します。山や川、滝や海を神として拝む自然崇拝は、被造物の高潔さに感動して、人が神として拝む習俗が日本古来の神意識です。造られた自然は被造物であって、真実の神が森羅万象を創造されたのです。
 輝く富士の山、時の間をおかず流れ落ちる那智の滝、命の根源の光として燦燦と耀く太陽が神ではないのです。山を造り、海を造り、自然の森羅万象を創造された方こそ真実の神であるのです。人がこの聖書の言葉に、真実の創造の神に気付く時、真実の神の恵みを自覚し、神を賛美し、神様を褒め称えるのです。聖書は「神は愛である」(Tヨハネ4:8)と教えています。また、「神は御自分にかたどって人を創造された。神にかたどって創造された。男と女に創造された。」(創1:27)とあります。人が神にかたどって創造されたとは、姿かたちではなく、内面的な自覚として理解すること、感じること、物事を構築する力を用いることと共に、「神は愛である」(ヨハネT4:8)とある、神の愛で人間も生きるようにされているのです。
もう一つは、「神は聖である」ということです。人間は神様の愛と、聖い心をもって生きる原理を示しています。「男と女に創造された」という聖書の言葉、即ち、人は「男女」が愛し合って生きることを示し、その愛は、「神の愛」に生きて、初めて人間であることを示している原型であると言えます。人は愛し合って男女が出会い、そこに新しい家庭が生まれるのです。日本では仏教の初期の教えから、「愛」は人を狂わせるもの、男は、女を情欲の対象として理性を狂わせ、人生を破壊するものという考えが伝承されてきた経緯があり、明治以来の近代化の中で「愛」が一般的な恋愛や情愛などに日常的に理解されるようになってきたのです。しかし、新約聖書の言葉であるギリシャ語には、「愛」という言葉が厳密に意味を分けて表現されています。自己愛すなわち、人の生きる欲望、願いを「エロス」と言います。今日の日本では外来語として「エロチック」という言葉は、下品な欲情の自己愛を指すのですが、「エロス」は、本能的な自己保存を言っているのであり、自然に生きる自己保存、より自己充足を満たす欲望であって、全ての人間の本性であるのです。その基本は、自己保存の打算的な愛なのです。エロスの愛の世界は自己保存の本性から、打算、闘争、自己満足中心に生きることになります。
 人が神に似せて創造されたのは、神の愛よって生かされる存在であるためです。「友のために自分の命を捨てること、これ以上に大きな愛はない。」
(ヨハネ15:13)これ以上大きな「愛」はないということは、愛する者のために自己存在の全てを捧げることを意味しています。駆け引きや打算でつながるのではなく、自己存在の全て、即ち、愛する人のために命を捧げることを言っているのです。ギリシャ語には、愛の表現は25ぐらいあると言われますが、大きく分けて自己保存の愛―エロス、親子兄弟、友情の普遍的愛―フィロス、そして愛する者のために命、全存在を犠牲にするー「アガペー」すなわち「神の愛」があるのです。
 真実の神を見失った人類は「神の愛」を忘れ、自己保存の闘争に明け暮れ、争いを繰り返しているのが現実の世界です。真実の愛に目覚め、赦しと和解によって平和を求めることこそ、神の救いであるのです。
天地とその中にあるすべてのものを創造された創造の根源である神は、「エロス」に生き、闘争と支配、滅亡の悲劇の中にある全世界を、神の愛をもって救う道を示されたのが、イエス・キリストの降誕であるのです。神が人になる、創造の根源である神が、人になる奇跡を通して神の愛を示されました。「しかし、わたしたちがまだ罪人であったとき、キリストがわたしたちのために死んでくださったことにより、神はわたしたちに対する愛を示されまました。」(ローマ5:8)
神が人になるということは自然の原理を超えた奇跡と言えます。それが、イエス・キリストであるのです。真実の神を忘れ、神の愛を見失っている罪深い人間に、神の子としてキリストは真実の神の道を示し、神の愛アガペーに生きるため.に、罪の赦しと贖いを生涯の最後に示して下さったのです。
真実の創造の神、真実のアガペーの愛に生かされ恵みにあずかる時、それは行動の力となるのです。神の愛に生きる恵みを喜ぶ人生に変えられるのが「福音」であるのです。福音は良き訪れ、キリストによって現された神の国に生きる喜びの人生に導きます。
神の愛があるところに神の国があり、神様を信じる恵みよって全ての被造物は神を称え、喜ぶことができるのです。
愛されている喜び、生かされている感謝、キリストを通して与えられる「福音」の恵み、真実の神を信じ、体験する神の愛を全世界に出て行って人々に語り、伝え、神の愛「アガペー」の平和と幸せを宣教しようではありませんか。


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